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荒井鎌吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

荒井 鎌吉(あらい かまきち、生没年不詳)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけての人物。町人料理人。名字を「坂田」と伝えるものもある。

経歴

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江戸下谷広小路(現在の上野広小路駅北側)の料亭鳥八十(とりやそ)で、板前として働く。

鳥八十は当時の江戸の料亭番付にも名が載る高級料亭で、榎本武揚伊庭八郎たちが贔屓としていた。万延元年(1860年)には鳥八十で丙辰丸の盟約が行われ、明治時代には榎本武揚が足繁く通い、高級官僚の談合が頻繁に行われていた。

ある時、常連客だった伊庭八郎と意気投合し弟子となり、伊庭の実家である下谷御徒町の剣術道場で心形刀流を学ぶ。

慶応4年(1868年)、戊辰戦争が勃発すると、旧幕府軍遊撃隊の伊庭八郎の従者として箱根戦争(箱根山崎の戦い)に従軍[1]。8月、榎本武揚率いる旧幕府軍艦隊に合流、伊庭・本山小太郎中根淑たちと共に仙台を目指すが、乗船していた美賀保丸銚子沖で遭難。伊庭が横浜で潜伏生活に入ったため、江戸に戻るが、11月に伊庭が蝦夷地に向かったという話を知り、後を追う。

明治2年4月20日(1869年5月31日)、箱館戦争木古内の戦いで伊庭が重傷を負った日に箱館に到着[2]。伊庭は五稜郭に収容されたため、彼の看護に専念する。5月、伊庭の死を見届けた後、彼の遺品を預かり、伊庭家の菩提寺貞源寺へ届ける。

明治32年(1899年)9月10日、上野東照宮で行われた『旧幕府史談会「伊庭八郎を偲ぶ会」に伊庭想太郎に伴われて出席、戊辰戦争の談話を語る[2]。その後の消息は不明。

後裔による口伝

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鎌吉から曾孫にあたる口伝によると、「幕末、料理人だった鎌吉は榎本武揚(ぶようと呼称)が率いる艦隊に乗船し北海道へ上陸。戦いの後は江戸には戻らず静岡に住み、暫くすると東京へ戻りお店を開業した。」と伝わる。

戸籍上(祖父の長兄にあたる)によると、鎌吉は明治36年(1903年)11月25日に死去とされ(本人の戸籍は震災により焼失し生年不明)、墓は浅草の寺院にあるとされる。

登場作品

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  • 子母澤寛の作品群では「八十吉(本名は藤吉)」という名前で登場する。小説『行きゆきて峠あり』によると、明治20年(1887年)時点で55歳、大正時代の初めまで長生きしたと伝える。
  • 『幕末遊撃隊』(池波正太郎) - 伊庭八郎が主人公の小説。鎌吉が重要な役割を担う。
  • MUJIN-無尽-』(岡田屋鉄蔵) - 鎌吉を語り手とした伊庭八郎の一代記。

脚注

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  1. ^ 「慶応四年辰年閏四月 渡辺勝蔵自筆写出陣日記」(『旧幕府』第三巻第六号)
  2. ^ a b 「史談会記事」(『旧幕府』第三巻第八号)