臨済寺 (静岡市)
臨済寺 | |
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山門 | |
所在地 | 静岡県静岡市葵区大岩町7番1号 |
位置 | 北緯34度59分35秒 東経138度22分33秒 / 北緯34.99306度 東経138.37583度座標: 北緯34度59分35秒 東経138度22分33秒 / 北緯34.99306度 東経138.37583度 |
山号 | 大龍山 |
宗旨 | 禅宗(臨済宗) |
宗派 | 臨済宗妙心寺派[1] |
本尊 | 阿弥陀仏[1] |
創建年 | 享禄年間 |
開基 | 今川氏親 |
中興年 | 天文5年(1536年) |
中興 | 今川義元、大休宗休、太原崇孚雪斎 |
正式名 |
大龍山臨濟寺 大日本國駿州大龍山臨濟禪寺 |
別称 |
敕東海最初禪林 善得院 |
文化財 |
本堂 - 重要文化財 庭園 - 国の名勝 |
法人番号 | 5080005000660 |
臨済寺(りんざいじ)は、静岡市葵区大岩町にある、臨済宗妙心寺派の禅寺。山号は大龍山、同派の専門道場である。駿河の戦国大名・今川家の菩提寺で、今川館(現在の駿府城)の北西に当たる賤機山(しずはたやま)の麓に位置する。なお賤機山山頂には今川家の詰城である賤機山城があった。
歴史
[編集]今川時代
[編集]享禄年間(1528年 – 1532年)に、今川氏親が、出家した子・栴岳承芳(せんがくしょうほう、後の今川義元)のために、母・北川殿(今川義忠室、伊勢宗瑞姉)の別邸跡に、太原雪斎(たいげんせっさい)を招き建立した寺院・善得院が前身である。
天文5年(1536年)、栴岳承芳の兄・今川氏輝が急逝したため、今川家の家督を巡る「花倉の乱」が起こった。この内訌で弟の玄広恵探を破り家督を次いだ今川義元は、同年、氏輝を当寺に葬った(法名・臨済寺殿用山玄公)。この際に、「善得院」を氏輝の法名に由来する「臨済寺」と改め、京都妙心寺霊雲院の大休宗休を開山とした。そして、実際の運営を掌る2代目の住持として、大休宗休の弟子・太原崇孚雪斎が招かれた[1]。
雪斎は、当寺を駿河の勅願寺に昇格させた上、天文23年(1554年)には「歴代序略」臨済寺雪斎書院刊を出版するなどして今川領国内に臨済宗を広げたため、寺勢は大いに興隆した。さらに雪斎は、当寺の住持の任にありながら、戦国大名・今川氏の軍師として、義元の下で政治・軍事・外交に秀でた手腕を発揮してこれを補佐した。
当寺がある賤機山麓の大岩には、6代範政墓所の今林寺、7代範忠墓所の宝処寺、8代義忠墓所の長保寺、さらには義元の桶狭間での戦死後に12代氏真が義元墓所として建立した天沢寺など多くの歴代今川氏縁の寺院があったとされるが、その多くが廃寺となり当寺に吸収されている。そのため当寺には、氏輝・義元らの墓所があるとともに、歴代今川当主の位牌が安置されている。
1918年(大正7年)『静岡案内』「臨済寺」
安倍郡安東村大岩に在り、本尊は名工春日の作阿弥陀仏を安置す、京都妙心寺派にして県下屈指の巨刹なり。元と善得院と号し享保の頃、僧承芳の創建なり。天文5年、今川氏親の子氏輝を葬り臨済寺殿と称せしを以て大龍山臨済寺と改めしなり。当時、僧太原、この寺に住し今川氏の執権を兼ね、太原本光国師(大休)を師とし、請して開山となし自ら二世となる。国師、後奈良天皇の御帰依を受く、因て勅願寺となす現に之を蔵す。また、竹千代丸(家康公幼名)今川氏に質となり駿河に在りし頃、太原を師として書を学び兵を講ぜりと云う。 — 浦田張洲編『静岡案内』「臨済寺」、1918年(大正7年)2月発行より抜粋[1] ー
徳川時代以降
[編集]永禄11年(1568年)、今川氏・北条氏との甲相駿三国同盟が手切となり武田信玄による駿河侵攻が開始され、駿府城下に火が懸けられたため、臨済寺の堂宇も灰燼に帰した。しかし、天正10年(1582年)の武田氏滅亡後に駿河を領有した徳川家康が正親町天皇の勅命によって復興・整備を進め、現在も残る本堂が再建されるなど盛時の姿を取り戻した。
当寺は、今川氏人質時代の家康(松平竹千代)が教育を受けたところとしても知られており、駿府が徳川幕府直轄地となった江戸期を通じて徳川氏の手厚い庇護を受けた。
1918年(大正7年)『静岡案内』「臨済寺」
天正10年、家康、甲斐の武田信玄と其の地に戦い依って兵火に遇いしが、同年8月、正親町天皇の勅を奏して建立す、即ち今日の殿堂これなり。明治維新神仏混淆を許されなくなり、同年20年頃、山門を新築し内に今の十二神、元浅間の楼門にありしが之を安置す。域広く樹木鬱蒼し、山門、方丈、大書院、及庫裡、護国道場等あり、伽藍雄大にして美観、寺内に今上天皇陛下皇太子殿下に在ま頃の御手植松、内親王常宮、周宮両殿下の御手植の桜、家康公接木の西湖梅等あり。 — 浦田張洲編『静岡案内』「臨済寺」、1918年(大正7年)2月発行より抜粋[2] ー
伽藍
[編集]境内は参観自由であるが、現在も僧堂は修行僧の専門道場となっており、建造物・庭園内は春・秋の年2日、特別公開が行われる以外は非公開である。春の特別公開は、今川義元の命日にあたる5月19日に、秋の特別公開は、摩利支天祈祷会が執り行われる10月15日である。
- 大書院
- 内部に竹千代御手習いの間がある。
- 書院
- 座禅堂
- 摩利支尊天信仰の外郭団体である開運講が、年に一度招かれ講中斎が開かれる。
- 茶室「夢想庵」
- 鐘楼
- 通用門
文化財
[編集]重要文化財(国指定)
[編集]- 臨済寺本堂
- 江戸時代前期(17世紀)建立。桁行22.7m、梁間16.8m、一重、入母屋造、こけら葺。1983年(昭和58年)1月7日重要文化財指定。
- 臨済寺は今川氏親の創立した寺院で、武田信玄、徳川家康両度の兵火を受け再建された。
名勝(国指定)
[編集]1941年(昭和16年)「臨済寺庭園」[3]
- 一.所在地 静岡市大岩城山臨済寺境内
- 二.指定年月日 昭和十一年九月三日
- 三.指定理由 保存要目名勝の部第一に依る
- 四.説明 天正年間徳川家康が伽藍を再建せし時築造せられたるものなりと傳ふ。建物は北方なる傾斜地を背景として南面し敷地に高低あり、東方一段高き大書院前の小池には崖上より溪谷風に導かれたる清水注ぎ、其の水溢れて西方低き方丈前なる小池の飛泉となれり、面して東側なる岩盤にばイハヒハ郡生し、主要部にはアカマツ、ラカンマキ、ゴエフマツ、ソテツ、サツキ等を植栽して、江戸時代に於ける景観と大なる変更なきものの如し。 — 『静岡県史蹟名勝天然記念物並国宝概要』静岡県、1941年(昭和16年)12月より抜粋
静岡県指定有形文化財
[編集]- 絹本著色大休和尚画像(絵画) - 1956年(昭和31年)1月7日指定
- 千鳥図屏風 一双(絵画) - 1957年(昭和32年)5月13日指定。元和2年(1616年)、駿府城で病臥していた家康への見舞いの勅使が、当寺に宿泊していた際に使用されたものだとされる。
- 鉄山釜 - 1956年(昭和31年)1月7日指定
その他の文化財
[編集]1918年(大正7年)『静岡案内』「臨済寺」
蔵する処の什宝も多く、その一二を記せば後奈良天皇御宸翰、正親町天皇御宸翰、太原和尚所持長刀、袈裟、鐙、家康公寄付の金唐草文庫、唐桑硯箱、丹渓硯石、紫純子机掛、提重。 — 浦田張洲編『静岡案内』「臨済寺」、1918年(大正7年)2月発行より抜粋[2]
歴代名墓
[編集]境内墓地の最上段には、今川氏輝の墓や雪斎の墓、天正18年(1590年)、家康が関東移封となった後に駿府城主となった豊臣家臣・中村一氏の墓がある。
交通アクセス
[編集]- 鉄道
- 路線バス
- 静鉄バス - 静岡駅前16番乗り場(三菱UFJ銀行前)から「中原池ケ谷線・71 唐瀬(からせ)営業所行き」にて臨済寺前(バス停名は通称の“りんさいじ”を使用)下車徒歩3分
- 自動車
ギャラリー
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参道より山門を見る
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参道より山門を見る
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山門より本堂と参道の石段を見る
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南西側より本堂と大書院を見る
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西側より大書院と鐘楼を見る
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東側より本堂と座禅堂を見る
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本堂前より遠く静岡市街を望む
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山門の東側にある修行道場を見る
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山門の東側にある庭園を見る
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山門の西側にある新仏殿を見る
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山門の西側にある庭園を見る
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 大岩曾林編『臨済寺境内摩利支尊天花火奉燈秋冬交題三句合』大岩曾林、1894年、公共図書館蔵書。
- 瀬川光行編『日本之名勝』「大岩臨済寺(駿河)」史伝編纂所、1900年12月31日、国立国会図書館蔵書、2016年8月22日閲覧。
- 法月鋭児著『静岡県郷土史談』「臨済寺」、修誠堂書店、1894年12月、国立国会図書館蔵書、2016年8月14日閲覧。
- 滝敏著『静岡名所案内 附・江尻、清水』泰進堂、1912年7月30日、国立国会図書館蔵書、2016年8月14日閲覧。
- 日本仏教、桑田和明著『戦国大名 今川氏領国における臨済寺本末について - 二冊の「書立」を中心に』日本仏教研究会、1978年12月。
- 文化財建造物保存技術協会編『重要文化財臨済寺本堂修理工事報告書』重要文化財臨済寺本堂修理委員会、1994年3月、国立国会図書館蔵書。
- 臨済寺史研究会編『大龍山臨済寺の歴史』臨済寺、2000年、国立国会図書館蔵書。
- 文化庁『国宝・重要文化財(建造物)実測図集』文化庁、2004年、国立国会図書館蔵書。
- 静岡県史編纂編『静岡県史編纂資料 416』「臨済寺文書」、静岡県立中央図書館、2005年2月、公共図書館蔵書。
- 澤田天端著『江戸時代中期 臨済寺庭園 平成10年3月』2013年10月25日、公共図書館蔵書。