コンテンツにスキップ

聘珍樓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
株式会社聘珍樓
Heichinrou Co. Ltd.
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
222-8577
神奈川県横浜市港北区新横浜2-2-8
アーバンセンター新横浜8F
業種 小売業
法人番号 8020001115812 ウィキデータを編集
事業内容 中国広東料理レストランの経営・菓子・食料品の製造販売その他フードビジネスの経営
代表者 林衛(代表取締役社長)
外部リンク https://www.heichin.com/
テンプレートを表示

株式会社聘珍樓(へいちんろう)は、神奈川県横浜市横浜中華街に本店を置く中国料理店。1884年創業[1]。聘珍樓の「のれん」は、張家二代、鮑家二代、龐柱琛、林康弘と続き現代表取締役の林衛で七代目。横浜中華街にある横浜本店は移転のため2022年(令和4年)5月15日から一時閉店[1]となっていたが、店舗を運営していた(株)聘珍樓(横浜市中区)が2022年6月2日、横浜地裁より破産開始決定を受けた[2]。横濱本店以外の店舗(日比谷・吉祥寺・大阪・小倉等)は、別法人の(株)聘珍樓(横浜市港北区)が運営。

CI

[編集]

社名 [3]

[編集]

社名の聘珍樓の意味は、「聘」は迎える心、「珍」は尊ぶ心。また、別の意味で、「良き人、素晴らしき人が集まり来る館」。

「良き人、素晴らしき人が集まり来る館」という意味合いを持つ聘珍樓の屋号の由来は、中国古代の文献である「礼記(らいき、禮記)」に収められた「儒行」の一節、「儒有席上之珍以待聘(儒者は宴席の佳肴の如きで、良き人品と道徳を備えて招聘登用されるのを待つものだ)」にあった。

孔子を始祖とする思考・信仰の体系である儒教の教えをまとめた経書の中で「四書」と「五経」の総称を「四書五経」と言う。四書は「論語」「大学」「中庸」「孟子」、五経は「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」をさす。その中の「礼記」は主に秦以前の礼儀作法について述べられ、あわせて孔子とその弟子との問答をまとめたもの。九万字に及ぶ著書は修身や礼儀作法について述べているが、内容は幅広く政治、法律、道徳、哲学、歴史、祭祀、文芸、日常生活、暦法など多方面に及ぶ。「礼記」に収められた一篇の「儒行」の中に孔子と弟子の問答があり、その一節に「儒有席上之珍以待聘」とある。この一節は孔子が弟子の質問に答えたもので、「儒者は宴席の佳肴の如きで、良き人品と道徳を備えて招聘登用されるのを待つものだ」という意味。そこから「席珍待聘」と言う四字熟語が生まれ、「才能ある者が登用され招聘任命されるのを待つ」という意味に使われるようになった。「席珍」とは宴席に供される佳肴をさし、転じて「才能のある者」を言う。「待聘」とは「登用されるのを待つ」の意となる。「席珍待聘」の四字成語から、聘珍樓の屋号はこの書物の一節にちなむ命名であった。この一節でも佳肴を意味する「珍」を「才能ある者」の「珍」としてたとえてある様に、「聘珍樓」も「良き人、素晴らしき人が集り来る館」と解して佳肴と人を総じて語ってある。

ロゴ

[編集]

聘珍樓のロゴは1988年にALAN CHANがデザイン。その意味は、バスケットには6種類の果物が入っており、桃子(もも):長寿、百合(ゆり)・蓮根(れんこん):永遠に続くお互いの愛、茘枝(らいち):豊な実り、佛手柑(ぶっしゅかん):富と健康、石榴(ざくろ):子宝の意味。

創業年

[編集]

[4] 創業は1887年とされてきたが、2009年は横浜開港150周年であり、「開国博Y150」が開催され、それを機に横浜開港資料館が「横浜中華街150年」を編集・刊行した。その中で「聘珍樓」の特集記事が組まれ、当該資料[5]には、聘珍樓が1884年(明治17年)の創業であること、中華街の中でも創業以来同じ屋号で現在の中華街大通りに面する同じ敷地で営業を続けているのは聘珍樓を含む2店舗しか存在しないことなどが記載されていることがわかり、2009年に創業を1887年から1884年へと修正した。

歴史

[編集]
聘珍樓横浜本店(明治後期)
聘珍樓横浜本店(昭和初期)

創業及び設立(1884年 - 1974年)

[編集]

聘珍樓の創業は1884年[4]。張姓の華僑が現本店所在地に中国料理店を開業。当時は1階にたばこ店などがあり、蒲鉾形の窓を配した2階店舗であった。その後、張茂元が引継ぐ。関東大震災(1923年)で瓦解したものの、後に鮑荘昭、鮑金鉅(ホウ・キンキョ)の父子が継ぎ、これを復興。当時、日本にあった中国料理店では山下町135番地にあった会芳楼(現在は山下町公園にあずまやの会芳亭が記念に立つ)や遠芳楼に次いで古い店。一時は三百坪の大型店で一度に200名〜300名収容できる大広間があった。しかし第二次大戦で再び荒れ果て、鮑金鉅はこれを再建する意欲を失う。その時友人であった龐柱琛(パン・チュウシン、のち日本に帰化して林達雄と名乗る)は「聘珍樓の過去の栄華を考えると忍びない」として1960年頃に鮑金鉅から聘珍樓ののれんと土地建物を買い受けた。龐柱琛は中国廣東省高明県(現佛山市高明区)に生まれ、19歳で横浜に来て30歳まで苦節を重ねたが異国の地での希望を失っていったん故国へ帰ったものの、再び夢を求めて来日し中国料理のコックとして修業を積み、一国一城の主を夢みていた。聘珍樓は明治・大正にかけては大型店ではあったが、震災や戦災などの影響で龐柱琛が買い受けた際はわずか45坪ほどの焼き豚や腸詰めを売る店になっており、1967年に有限会社を設立したころには、聘珍樓が考案したサンマーメン(生碼麺)やその他の一品料理を手軽に楽しめる小型店になっていた。1975年、息子である林康弘が事業を継承するころには、聘珍樓は80坪程の店になっていた。

林達雄と横浜中華街

[編集]
林達雄

林達雄は聘珍樓の再建者というだけではなく、現在の萬珍樓も創業。当時達雄が自ら音頭をとり、街の仲間達とともに中華街大通りに「中華街」と表示した高さ15メートルの朱塗りの牌楼(ぱいろう)を横浜市の助成などの援助を受けて建てた。横浜中華街の萬珍樓の成功後、買い受けた聘珍樓を再建し、街の発展にも貢献した達雄は、1972年に第二の故国となった日本へ帰化し、1976年11月、この地に骨を埋める。その功績により1969年2月に昭和天皇から勲五等瑞宝章を賜るという栄誉に輝く。

牌楼建設

[編集]
龐柱琛への感謝状

[6] 1954年(昭和29年)9月10日、牌楼建設工事が着手された。 当時の平沼亮三横浜市長と半井清(なからいきよし)横浜商工会議所会頭は、アメリカを視察し、横浜の戦後復興の一策として、横浜中華街を戦前の様な特徴ある街に再建し観光の呼び水とすることが必要だと提唱した。 この呼びかけに地元華僑が共鳴し、神奈川県と横浜市、横浜商工会議所などが協力して、牌楼建設の計画が持ち上がった。 こうした動きの中心となったのが、当時の横浜華僑総会の会長薛来宏、留日広東会館会長龐柱琛、陳洞庭ら横浜華僑と横浜の日中両国人の親睦団体である日中協会常務委員の金子光和である。金子光和は戦前よりへ京浜日華協会を発足させるなど、日中友好に尽力した人物で、日中両国人の信望も厚く牌楼門建設委員会の会長に推挙された。金子は建設のために、寄付金集め、設計案の調整、中華街側と役所側との橋渡しと東奔西走の活躍をした。その甲斐あって地元華僑や日本人の有志八十余名の寄付金と、神奈川県と横浜市からの助成金をあわせ、133万円あまりの資金が集まった。工事は寿建設が請け負い、1954年8月17日に地鎮祭が行われ、9月10日に工事が着手された。そして翌年に鉄筋コンクリート建て、高さ13メートル、幅18メートルの極彩色の中国牌楼が完成した。門には、「春秋左氏傳」から引用した「親仁善隣」の言葉を刻んだ額が掲げられた。1954年、戦後復興への願いを込めて牌楼が建設され、その後東西南北の門が造られていった。そして初代牌楼から40年後、中華街では四つの牌楼(朝陽門、延平門、朱雀門、玄武門)の改築が進められた。その担い手は初代牌楼の建設に情熱を注いだ華僑の息子たちである。

支店の開設(1978年 - )

[編集]

吉祥寺聘珍樓本館(1978年2月開店、現在は閉店)、日比谷聘珍樓(1980年3月開店)、吉祥寺聘珍樓新館(1988年11月開店、現在の名称は吉祥寺聘珍樓)、溜池山王聘珍樓(2000年5月開店)、小倉聘珍樓ANNEX(2000年7月開店)、大阪聘珍樓(2006年11月開店)

香港現地法人(1988年 - )

[編集]

1988年に現地法人聘珍樓香港有限公司設立。日本から中国料理店を出店。

  • 香港店舗:
    • 觀塘 聘珍樓
    • 鑽石山 聘珍樓
    • 金鐘 名都酒樓
    • 馬鞍山 名都

業容の拡大(2000年 - 2010年)

[編集]
1990年代には、各百貨店の惣菜コーナーへの出店を拡大。またこの頃、金森製造所を開設し、肉まんそして点心等の商品製造ラインを増強し、ギフト(中元・歳暮)の取扱いも含め拡大する。
更に、杏仁豆腐の素、中華調味料などの商品を開発し商品として販売。その後、順次、商品ラインナップを増やしていく。
2000年には、配送センターを横浜市港北区に開設し、食品事業の業容の拡大に対応。
2000年にインターネット通販事業に参入。ショップ名は「29man.com」その後「聘珍ショッパーズ」に変更。
2006年に「聘珍樓」⇒「中国料理」⇒「医食同源」の考えから健康補助食品事業に参入。「燕の巣」サプリメント販売。
2007年に創業120周年記念イベントを開催。
2008年4月 ダイドードリンコ株式会社とコラボレーションしたペットボトル飲料のジャスミン茶を「聘珍茶寮」のブランド名で販売開始。その後、プーアル茶、春ブレンド茶、夏ブレンド茶を発売している。
2009年11月 中国国家旅遊局(日本の観光庁に相当)と広東省政府が共催で開催した第1回中国広東料理サミット「首届中国粤菜峰会」において代表取締役林康弘が、ベスト・カントンフーズの提供により広東料理の普及と地位の向上に寄与し、健康及び安全に対する信頼を高めたとの評価を得、「推動粤菜発展功勲人物」(広東料理発展推進功労者)に選ばれた。[3]

食の安全に対する理念

[編集]
食に携わる者の第一の責務は美味しさ以上にそれを食する人の安全と健康である
1995年より、化学調味料L・グルタミン酸ナトリウム)、保存料人工着色料の完全無使用を一年の猶予期間を経て、実行。現在に至る。
目の届く範囲(安全の確認ができたもの)の食材しか使用しない
中国製冷凍ギョウザ事件以前から、国産材料にこだわり、その事を店頭に掲げていたので、事件当時の朝日新聞及び神奈川新聞に取り上げられた。現在は中国でしか作れない製法を用いる調味料や酒類(鎮江酢、豆豉、老抽、紹興酒腐乳等)を除けばすべて国内産材料を使用している。

薬膳

[編集]
2010年より、広東料理に古くから伝わる薬食同源のセオリーに基づく「季節の薬膳セミナー」をスタート。国際中医師の大田ゆう子が講師として季節の養生を伝え、聘珍樓総料理長西崎英行が四季折々の料理を提供するという趣向のこのセミナーは、2016年には開始から6年目を迎える。会社発表によると、現在まで、その開催は80回を超え、のべ3,400人の参加者を誇るイベントとなっている。また、2013年からは国際中医師の大田ゆう子の監修のもと、その料理ひとつひとつの効能が記載されたパンフレットを配布し、効能を理解しながら食事が出来るスタイルの「アンチエイジング薬膳コース」を年12回替わる月替わりのメニューとして聘珍樓全店で開始。
2013年10月以降、雑誌家庭画報『家庭画報11月号』(2013年10月1日発売)など数々の媒体で「聘珍樓の薬膳」が取り上げられた。そして2016年6月には、セミナーの参加者から「家庭で毎日薬膳を続けるためのセオリーと簡単なレシピが知りたい」という声に応えて、『聘珍樓のいちばんやさしい薬膳』(PHP研究所)が出版された。

過去の総料理長

[編集]
前総料理長 謝華顕
現総料理長 西崎英行
周富徳
経歴は本人の項目を参照。
謝華顕(1991年6月 - 2009年12月)[注釈 1]
1948年中国廣東省生まれ。
13歳から香港の海鮮酒家で修行をはじめ22歳にして翠園酒家本店で最年少チーフシェフとして注目される。
その後、数々の店で活躍し1980年初来日、日比谷聘珍樓へ。
1988年には香港総監督職として就任。
西崎英行(2010年1月 - )
1989年 聘珍樓入社 日比谷店勤務。
1997年 1995年より2年間某ホテル勤務を経た後、日比谷店勤務。
2000年 溜池山王聘珍樓オープンとともに溜池山王店副料理長に就任。
2002年 溜池山王店料理長に就任。
2009年 聘珍樓日本国内全11店舗の副総料理長に就任謝華顯総料理長の後継者となる。
2010年 聘珍樓総料理長に就任。

沿革

[編集]
  • 1884年 現在の横浜中華街にて創業
  • 1923年 9月 関東大震災にて瓦解
  • 1967年 7月 有限会社 聘珍樓設立 代表取締役 林達雄
  • 1975年 6月 代表取締役 林康弘就任
  • 1978年 2月 株式会社に組織変更
  • 1980年 3月 日比谷聘珍樓開店
  • 1986年 4月 横濱中華街本店を全面改築し新装開店
  • 1988年 6月 現地法人 聘珍樓香港有限公司設立
  • 1988年 11月 吉祥寺聘珍樓新館を開店
  • 1990年 2月 横浜市より「横浜まちなみ景観賞」授与
  • 1991年 7月 聘珍茶寮中華街店開店
  • 1994年 7月 中区新山下・横浜ジョイポリス内にビアレストラン聘珍樓開店
  • 1995年 9月 横浜ジョイポリス内ビアレストラン聘珍樓をライブも楽しめるブルースカフェby聘珍樓としてリニューアル
  • 1996年 9月 横浜ジョイポリス内ブルースカフェby聘珍樓閉店
  • 1997年 4月 横濱中華街本店増築(新館)
  • 1999年 6月 中国野菜の栽培をしている千葉県の西川ファームと契約
  • 1999年 9月 SARIO聘珍茶寮横浜ワールドポーターズ店開店
  • 2000年 7月 小倉聘珍樓ANNEX開店
  • 2000年 7月 横浜市港北区に配送センター開設
  • 2000年 7月 新羽配送センター開設
  • 2000年 12月 Eコマースサイト「29man.com」開設
  • 2002年 2月 The CAFÉ中華街店開店
  • 2003年 11月 小机工場開設
  • 2005年 8月 クロ-ズド型のプリペイドカード、聘珍樓のギフトカード「聘珍カード」導入
  • 2006年 4月 健康補助食品事業参入
  • 2006年 11月 大阪聘珍樓開店
  • 2007年 2月 創業120周年記念イベント開催
  • 2008年 4月 ダイドードリンコ株式会社とコラボレーションしたペットボトル飲料発売
  • 2008年 6月 NPO法人が主催するフードバンクの取組みに参画
  • 2008年 9月 「TOKYO油田2017」のプロジェクトに参画し、廃油リサイクルの取組み開始
  • 2008年 5月 Eコマースサイト「29man.com」をリニューアルし、ショップ名を「聘珍ショッパーズ」に変更
  • 2009年11月 中国国家旅遊局(日本の観光庁に相当)と広東省政府が共催で開催した第1回中国広東料理サミット「首届中国粤菜峰会」において同社代表取締役林康弘が、「推動粤菜発展功勲人物」(広東料理発展推進功労者)に選ばれる[3]
  • 2016年 4月 株式会社PHP研究所より「聘珍樓のいちばんやさしい薬膳」を出版。
  • 2018年 8月 株式会社PHP研究所より「聘珍樓のいちばんやさしい薬膳」が翻訳本として台湾で発売
  • 2019年 2月「Heichinrou Chocolat – 聘珍樓ショコラ -」発売
  • 2022年 11月 横浜市都筑区にメニュー開発及び研究の拠点となる「聘珍樓都筑サテライトキッチン」を設立。高性能な冷凍装置を設置しシェフ手作りによる冷凍惣菜の事業に参入。    

店舗

[編集]

聘珍樓

[編集]
  • 神奈川県:聘珍樓横浜本店(中華街大通りの中ほどに店舗を構えたが聘珍楼横浜本店は移転のため2022年(令和4年)5月15日から一時閉店[1]。2022年5月時点で移転先や開店時期は未定である[1]。)
  • 東京都 :吉祥寺聘珍樓、日比谷聘珍樓
  • 大阪府 :大阪聘珍樓
  • 福岡県 :小倉聘珍樓

SARIO

[編集]
  • 神奈川県:SARIO聘珍茶寮中華街店、SARIO聘珍茶寮横浜ワールドポーターズ店

The Cafe

[編集]
  • 神奈川県:The Café中華街店

HEICHINROU DELI(百貨店内店舗)

[編集]
  • 売店
    • 東京都 :東京大丸、銀座松屋
    • 埼玉県 :大宮そごう、西武所沢
    • 千葉県 :船橋東武、千葉そごう
  • COD(Cook On Demand)
    • 東京都 :池袋西武、上野松坂屋
    • 神奈川県:横浜そごう、上大岡京急
    • 宮城県 :仙台藤崎
    • 大阪府 :うめだ阪急
    • 福岡県 :福岡三越、博多阪急
    • 北海道 :札幌大丸

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 1991年より総料理長制開始

出典

[編集]
  1. ^ a b c d 「聘珍樓横濱本店」一時閉店 中華街の老舗、移転で15日”. 神奈川新聞 (2022年5月13日). 2022年5月13日閲覧。
  2. ^ 「聘珍樓横濱本店」を経営、(株)聘珍樓(横浜市中区)が破産。(東京商工リサーチ)”. Yahoo!ニュース. 2022年6月2日閲覧。
  3. ^ a b c 聘珍樓オフィシャルホームページより引用
  4. ^ a b 『横浜中華街150年 落地生根の歳月』(横浜開港資料館 2009年)より
  5. ^ 『横浜中華街150年 落地生根の歳月』P.47(横浜開港資料館 2009年)より
  6. ^ 横浜開港資料館所蔵文献より引用

外部リンク

[編集]