竹下義晴
竹下 義晴(たけした よしはる、1891年(明治24年)4月9日[1][2] - 1979年(昭和54年)2月7日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
略歴
[編集]広島県出身[1][2][3]。竹下一清の二男として生まれる[1]。広島第一中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業[1][2][4]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第41連隊付となる[1][4]。参謀本部付勤務、陸士生徒隊付などを経て、1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を卒業し歩兵第41連隊中隊長に就任[1][2][3]。
1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、支那駐屯軍司令部付、参謀本部員(兵要地誌班)を経て、1926年(大正15年)3月、歩兵少佐に昇進[1]。同年12月、参謀本部付(支那研究員、中支・満洲駐在)となり、歩兵第11連隊大隊長、参謀本部員、関東軍司令部付(調査班長)を務め、1931年(昭和6年)8月、歩兵中佐に進級した[1]。
1931年10月、関東軍参謀に就任し、関東軍司令部付(ハルビン駐在)、陸士付を経て、 1935年(昭和10年)8月、歩兵大佐に昇進し山海関特務機関長に就任[1][3]。関東軍参謀を経て、1937年(昭和12年)10月、歩兵第45連隊長に就任し日中戦争に出征[1][2][3]。1938年(昭和13年)7月、陸軍少将に進級し中支那方面軍司令部付(上海特務機関長)となる[1][2][3]。
1939年(昭和14年)7月、第13軍司令部付(上海駐在)となり、1940年(昭和15年)3月、興亜院蒙彊連絡部長官に就任[1][2][3]。1941年(昭和16年)3月、陸軍中将に進み、同年12月、関東軍司令部付(満洲国軍政部最高顧問)に就任[1][2][3]。1942年(昭和17年)11月、第27師団長に親補され天津に赴任[1][2][3]。入院のため1944年(昭和19年)6月、支那派遣軍総司令部付となる[1]。第6方面軍司令部付、東部軍司令部付を経て、同年12月、予備役に編入された[1][2][3]。
1945年(昭和20年)1月、召集を受け留守第30師団長に就任[1][2][3]。同年4月、平壌師管区司令官に転じて終戦を迎えた[1][2][3]。その後、シベリア抑留となり、1950年(昭和25年)4月に復員した[1]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。