田村顕彰
田村 顕彰(たむら あきえだ[1]、生没年不明)は、江戸時代後期から幕末の旗本。一関藩主家分家の旗本田村家第7代当主。通称は数馬、隼人。官位は従五位下・伊勢守、のち伊予守。養父は田村顕承。実父は本家一関藩主田村村資。実兄は仙台藩主伊達斉義。正室は糸魚川藩主松平直紹の娘。子は田村顕謨(主馬)。家禄は蔵米700俵、のち2000俵。
京都町奉行や江戸幕府大目付、御三卿田安徳川家家老などを勤める。
生涯
[編集]須原屋茂兵衛蔵版武鑑の一関藩主田村家系図などでは、田村村資の子、伊達斉義の弟とされる。仙台藩主伊達慶邦の叔父にあたり、実父・村資の正室は脇坂安親の娘で脇坂安董の妹であった。なお、江戸城多門櫓文書では、実祖父を「田村信大夫」としている。
一関藩主は田村宗顕が相続していたこともあり、文化3年12月26日(1806年2月14日)に養父・田村顕承の家督を相続して小普請入りする。文政4年(1821年)に書院番士になり、文政6年(1823年)に進物番となる。
天保5年(1834年)に小十人頭となって布衣を許可される。天保7年(1836年)に西の丸目付となる。なお、実父の姻戚にあたる脇坂安董は同年に西の丸老中格となっている。
天保9年(1838年)に禁裏付となり京都へ上り、天保13年(1842年)には京都町奉行に就任した。仁孝天皇が崩御した弘化3年(1846年)に江戸にもどって作事奉行に就任し、嘉永6年(1853年)には勘定奉行に転じる。
安政2年(1855年)に御三卿の田安徳川家徳川慶頼の家老に就任する。その後、安政4年(1857年)に大目付兼分限帳改へ異動となって、翌安政5年5月(1858年)には大目付兼宗門改となるが、同年8月に慶頼が徳川家茂の将軍後見職となると、顕彰は田安家家老に再任となる。
分家田村家の家禄は本家一関藩からの内分分知700俵であったが、万延元年(1860年)に一関藩主田村通顕より追加の内分分知を受けて家禄2000俵となる。また、同年に田安徳川家家老を退いて西丸留守居となる。
文久2年(1862年)に西丸留守居を辞任する。ちなみに翌文久3年(1863年)に子の顕謨が小納戸から使番に転じている。