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田名部館

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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田名部館
青森県
別名 田名部代官所
城郭構造 平城(居館)
築城主 南部師行?
築城年 建武年間(1334年-1338年)?
主な城主 南部氏
廃城年 明治4年(1871年)頃
遺構 空堀
指定文化財 史跡等未指定[1][2]
埋蔵文化財
包蔵地番号
青森県No.208056
(田名部館遺跡)[1]
位置 北緯41度17分45.6秒 東経141度12分35.6秒 / 北緯41.296000度 東経141.209889度 / 41.296000; 141.209889座標: 北緯41度17分45.6秒 東経141度12分35.6秒 / 北緯41.296000度 東経141.209889度 / 41.296000; 141.209889
地図
田名部館の位置(青森県内)
田名部館
田名部館
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田名部館(たなぶだて)は、青森県むつ市小川町にあった日本の城[1]。中世から近世の平山城で、二重の空堀遺構として残っている。館跡は代官山公園として整備されている[3]

沿革

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建武年間(1334年-1338年)の頃、八戸根城の南部師行が家臣の武田修理、赤目五郎を目代として置いたところといわれる。

康正年間(1455年-1457年)、蠣崎城主・蠣崎信純(蠣崎蔵人)が南部氏に背いた際、糠部郡宇曾利郷(下北半島)が蠣崎氏の配下になったため、田名部館も南部氏の攻撃を受けた(蠣崎蔵人の乱)。

乱後に根城(八戸)南部氏家臣・新田盛政が城代となり、その後、八戸氏の属城となる。また慶長年間(1596-1615年)に八戸直政の室、清心尼が田名部北方の女館にいたが、元和3年(1617年)に南部利直が根城南部氏から下北の支配権を接収した。

寛文9年(1672年)のころ、館下の常念寺を代官所としていたが、寛文13年(1673年)頃に、館のある場所に田名部代官所が移されて明治に至る。

戊辰の役後、明治元年(1868年)、南部藩の北郡三戸郡二戸郡金田一以北は削封され、翌2年(1869年)、陸奧国3万石として会津藩が移封し斗南藩として田名部に移ったが、明治4年(1871年)に廃藩となった。

脚注

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  1. ^ a b c 「青森県遺跡地図」青森県公式HP
  2. ^ 「むつ市の文化財」むつ市公式HP
  3. ^ 「代官山公園」むつ市公式HP

参考資料

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  • 『岩手県史 第12巻 年表』岩手県、1966年11月1日。 
  • むつ市史編さん委員会『むつ市史 近世編』青森県むつ市、1988年3月31日。 
  • むつ市史編さん委員会『むつ市史 年表編』青森県むつ市、1988年2月20日。 
  • 工藤睦男『大畑町史』青森県下北郡大畑町(現むつ市)、1992年2月1日。 
  • 児玉幸多坪井清足日本城郭大系 第2巻 青森・岩手・秋田』新人物往来社、1980年7月15日。 
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典2 青森県』角川書店、1985年12月1日。ISBN 4040010205 

関連項目

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外部リンク

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