熊谷事件
熊谷事件(くまがやじけん)とは、1923年(大正12年)9月4日、関東大震災後の混乱の中、埼玉県大里郡熊谷町(現:熊谷市)で発生した朝鮮人殺害事件のこと。流言を信じた群衆や自警団が県南から群馬県へ移送中の朝鮮人数十人を殺害した[1]。
事件の経緯
[編集]県南からの朝鮮人の駅伝護送
[編集]関東大震災後の9月3日、埼玉県南部で保護・検束されていた朝鮮人の県外への移送が行われた。移送する朝鮮人の集団を警官と地域の消防団などが囲み、村送りの方法で管理を引き継ぎながら中山道を徒歩で北上し群馬県を目指した[注釈 1]。この移送は群馬側との連絡に不備があるまま進行し、先に県境の神流川まで到達した集団は群馬側に通行や引継ぎを拒否された(本庄事件参照)。熊谷事件の被害者を含む集団は、9月3日午後2時に川口を出発し、3日夜に大宮、4日朝に鴻巣を通過した[1][2][注釈 2]。
吹上停車場での騒動
[編集]4日午前11時頃、130名が吹上停車場に至り汽車に乗車しようとしたが、乗客や集まった群衆が騒然となり乗車できなかった。その際に暴行され負傷した朝鮮人2名が歩行に耐えられないとして村役場に送られ、のちに鴻巣警察署に保護された[4][5]。
久下村・佐谷田村で殺害があったとする証言
[編集]久下村・佐谷田村(現:熊谷市)を通過する際、数人の朝鮮人が逃亡して殺害され、村内に埋葬されたという証言がある。震災50周年の日朝協会に呼びかけによる調査によるもので、関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会『かくされていた歴史』(1974年)で報告されている。当時の記録にはなく、墓も現存していない[6][注釈 3]。
- 証言の要約
- 荊原[注釈 4]の堰辺りで1人が逃亡し「トビで引っかけられた」(久下 63歳)[9]。
- 土手の小段で休憩中に1人が逃亡し元荒川に飛び込んでツルハシで殺害された。蓮池に3,4人が飛び込み戻った1人が十貫目[注釈 5]くらいの石を4,5回ぶつけられて殺害されるのを見た(久下 64歳)[10]。
- 蓮池で2人、久下神社前で1人殺害されていた。久下では7,8人が埋葬されたが墓は残っていない。日射病で死亡したとして埋葬した(久下 58歳)[11]。
- 左富士[注釈 6]近くで逃亡した朝鮮人が1人撲殺された。八町で逃げた1人が元荒川に落ちて殺された(久下 65歳)[12]。
- 熊久橋近くで逃亡した朝鮮人が元荒川に落ちて殺された(佐谷田 74歳)[13]。
久下と佐谷田で一部は自動車(久下でトラック4、5台、佐谷田でT型フォード2台)に乗車して群馬方面へ向かった[14]。本庄町まで到達した朝鮮人は本庄事件に遭難したものと思われる[15]。残された数十人が熊谷事件に遭難した。
熊谷町の状況
[編集]熊谷は東京方面からの避難者が多く、救援や人捜しで東京へ向かう人々も押し寄せていた。3日頃から流言が広まり、3日夜には駅近くで社会主義者が群衆に襲われる騒ぎが起きていた[16]。自警団は各戸1名が参加したとされ、日本刀・槍・棍棒などを持ち出す人も多かった。4日夜には1万人以上の群衆が町内にいたという[17]。事件直前の9月4日夕方、午後4時19分下り列車の乗客が同町石原に居住していた社会主義者と誤認され引き降ろされる騒動があった。熊谷警察署長の調べで別人と判断され釈放されたが、釈放に反対する群衆が興奮し騒ぎになった[18][19]。
熊谷事件の発生
[編集]八丁地内の民家の庭で朝鮮人を休憩させているうちに、町から来た自警団や群衆に囲まれる。朝鮮人の一部は警察が手配した自動車[注釈 7]で移送されるが、続けて車両を送り出そうとした際に群衆が騒ぎ出し、車両はかえって危険として残された数十人を徒歩で送り出すことになった。しかし間もなく混乱状態になったという[20][注釈 8]。朝鮮人は縛られ数珠つなぎの状態で町内に連行され、興奮する群衆や自警団によって町内数か所で殺害された。警官も同行していたが制止できなかった[1]。
事件の直後、5,6人の朝鮮人が遅れて久下から到着したが、熊谷町内の事件を目撃した消防団員の警告により引き返し、忍(現:行田)警察署に向かい難を逃れた[21]。
被害者について
[編集]被害者の多くは東京からの避難者か、自警団などにより検束された朝鮮人と思われるが、氏名などは分かっていない。被害者の中には「自分は朝鮮人ではない、支那の上海だから助けて」と訴えていた人がいたという証言がある[22]。また本庄では蕨から護送されて来た集団から朝鮮人と誤認された日本人3名が解放されており、熊谷事件の被害者中にも中国人や日本人がいた可能性がある[23][24]。
被害者数
[編集]熊谷事件として裁判での被害者数は46人。
震災50周年の日朝協会の呼びかけによる調査[注釈 9](関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会『かくされていた歴史』1974年)では、新たな証言により熊谷での被害者数が追加され「確認出来た最低数」57人と結論している。また、確認に至っていない数として追加で11 - 22を上げている。
- 他の推計
- 当時の新聞記事による被害者数は42[25]、43[26][27]、58[28]など。
- 司法省調査「震災後に於ける刑事事件及び之に関連する事項調査書(秘)」の表(大正12年11月15日)によれば「自9月4日夜至5日午前・熊谷八丁地内・(被害者)氏名不詳約十五名・騒擾殺人・十三名を殺害二名を傷害す」とある。[29][注釈 10]
- 吉野作蔵調査では61人(表による)。
- 独立新聞は60人(表による)。
裁判
[編集]熊谷町での46人の殺害について、加害者35人が検挙され公判に付された。
埋葬と慰霊
[編集]事件後、町内の死体は大原墓地に運ばれ火葬後埋葬された。死体の回収は後に初代熊谷市長となる町の助役新井良作が行ったという。他に線路近くの砂利置場にも死体があったとされ(証言によれば16体)、荒川土手沿いの共同墓地に一旦埋葬された。しかし腐臭が酷くなったため掘り返され火葬に附されたのち改葬された[1]。
大原墓地には、新井良作が熊谷市長をつとめていた1938年に、市内数カ所の寺に分かれ埋葬されていた朝鮮人の遺体が合葬されたことをきっかけとして建立された、朝鮮人犠牲者の供養塔がある[30]。
久下の東竹院には震災2年後に建立の「関東大震災/横死者諸霊」と記された供養塔がある[31]。
最近の報道
[編集]ジャーナリストの渡辺延志が防衛省防衛研究所史料室で熊谷連隊区司令部報告書「関東地方震災関係業務詳報」を発見した。警察署で保護するために移送されていた四十数人の朝鮮人が「殺気立てる群衆の為めに悉(ことごと)く殺さる」などの記録がある[32][33]。
その他
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 裁判では「伝逓(でんてい)護送」の語がつかわれている。
- ^ 鴻巣町では、消防団が奔走し地区の総代を通じて92戸から各戸握り飯二三個が拠出され、朝鮮人130名を町内に休憩させ朝食を取らせ、煙草を与えるなどして、手厚く送り出したという[3]。
- ^ 裁判での警官の証言で2人程逃亡したという発言がある[7][8]。
- ^ 荊原(ばらはら)は現在鴻巣市、旧吹上町。当時は小谷村に当たる。久下と境を接する。
- ^ およそ37.5kg
- ^ 熊久橋の近く街道が折れ曲がる箇所があり、江戸に向かう旅人の左手に富士山が見えた名勝だったという。
- ^ 幌付き自動車。本庄事件でも目撃されており、ここで乗車できた人々も結局は本庄で被害に遭ったと思われる[15]。
- ^ 熊谷事件の第二回公判、警部の証言による[8]
- ^ 「埼玉県調査」とする誤りがしばしばみられる。埼玉県知事畑和(はたやわら)が名誉実行委員長だったが、県による調査ではない。
- ^ あまりにも数が少ない。要確認
出典
[編集]- ^ a b c d かくされていた歴史 1974.
- ^ 埼玉県北足立郡大正震災誌, p. 382-383.
- ^ 埼玉県北足立郡大正震災誌, p. 356.
- ^ 埼玉県北足立郡大正震災誌, p. 369.
- ^ 震災美談, p. 206-207.
- ^ かくされていた歴史 1974, p. 66-72.
- ^ かくされていた歴史 1974, p. 171.
- ^ a b 東京日日新聞 & 1923.11.2.
- ^ かくされていた歴史 1974, p. 66.
- ^ かくされていた歴史 1974, p. 67-68.
- ^ かくされていた歴史 1974, p. 69.
- ^ かくされていた歴史 1974, p. 69-71.
- ^ かくされていた歴史 1974, p. 72.
- ^ かくされていた歴史 1974, p. 35-36.
- ^ a b 大正の朝鮮人虐殺事件 1980, p. 190.
- ^ かくされていた歴史 1974, p. 77.
- ^ 熊谷市史後編 1964, p. 698.
- ^ 山陽新報 & 1923年10月4日.
- ^ 関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態 (朝鮮に関する研究資料 ; 第9集) 1963, p. 124.
- ^ かくされていた歴史 1974, p. 170.
- ^ かくされていた歴史 1974, p. 76.
- ^ かくされていた歴史 1974, p. 73.
- ^ 東京日日新聞(夕刊) & 1923.10.17.
- ^ 大正ニュース事典 第6巻 1988, p. 165.
- ^ 大阪毎日新聞号外 & 1923.10.20.
- ^ 山陽新聞 & 1923.10.21.
- ^ 東京日日新聞 & 1923.10.21.
- ^ 東京朝日新聞 & 1923.10.17.
- ^ 現代史資料6 関東大震災と朝鮮人 1963, p. 432.
- ^ 北浜修 (2023年9月1日). “関東大震災100年 朝鮮人虐殺、埼玉県内193人 熊谷の市民団体語り継ぐ”. 東京新聞. 2024年7月1日閲覧。
- ^ 隈元浩彦 (2023年9月23日). “熊谷に新たな供養塔 刻まれた「横死者」 朝鮮人虐殺犠牲者か”. 毎日新聞. 2024年7月5日閲覧。
- ^ 「関東大震災の朝鮮人虐殺裏付ける政府の新文書発見 陸軍機関作成」『毎日新聞』2023年12月14日、速報。
- ^ 「関東大震災 朝鮮人虐殺、新公文書 埼玉で四十数人「悉く殺さる」 陸軍省調査資料」『毎日新聞』2023年12月25日、東京版、朝刊1面。
参考文献
[編集]- 関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者調査・追悼事業実行委員会 (日朝協会埼玉県連合会内) 編『かくされていた歴史 : 関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件』1974年。 https://dl.ndl.go.jp/pid/12229336/
- 関東大震災六十周年朝鮮人犠牲者調査・追悼事業実行委員会 (日朝協会埼玉県連合会内) 編『かくされていた歴史 : 関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件 増補保存版』1987年7月。
- 姜徳相、琴秉洞 編『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年10月25日。
- 北沢文武『大正の朝鮮人虐殺事件』鳩の森書房、1980年9月。
- 関原正裕『関東大震災 朝鮮人虐殺の真相──地域から読み解く』新日本出版社、2023年7月24日。
- 北足立郡役所 編『埼玉県北足立郡大正震災誌』1925年12月23日。 https://dl.ndl.go.jp/pid/12229326
- 中島司『震災美談』朝鮮印刷株式会社、1924年。 https://dl.ndl.go.jp/pid/981895
- 朝鮮大学校 編『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態 (朝鮮に関する研究資料 ; 第9集)』1963年。 https://dl.ndl.go.jp/pid/2990312
- 大正ニュース事典編纂委員会, 毎日コミュニケーションズ出版事業部 編『大正ニュース事典 第6巻』毎日コミュニケーションズ、1988年9月。 https://dl.ndl.go.jp/pid/12192259
外部リンク
[編集]- 中央防災会議|災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成21年3月|1923 関東大震災【第2編】 - 防災情報のページ(内閣府)