コンテンツにスキップ

溝渕増巳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

溝渕 増巳(みぞぶち ますみ、1900年明治33年〉11月28日 - 1984年昭和59年〉1月17日)は、日本の内務官僚政治家

最終学歴は、小学校(旧制)卒業。満22歳で、大阪府警察部巡査となった。

巡査としての勤務の傍らの独学により、満28歳で高等試験行政科(戦後の国家公務員上級試験)に合格する偉業を成し遂げ、内務官僚(キャリア)となった。

公選第4代の高知県知事。在任期間は5期連続当選で1955年(昭和30年)12月12日 - 1975年(昭和50年)12月6日の20年間にわたって高知県の知事を務めた。

主な経歴

[編集]

逸話

[編集]
  • 1963年(昭和38年)に建設が始まった早明浦ダムの建設の際、記念の石碑を建てることとなった。そこには「四国はひとつ」という開発スローガンが刻まれる予定であったが、溝渕は開発一辺倒のスローガンに断固反対し、その文言を「四国のいのち」に変更させたという逸話がある。

著作

[編集]
  • 『民衆処遇の誡』大阪府警察部警務課、1937年6月。全国書誌番号:44019189 
  • 『日本警察』松華堂、1939年3月。 NCID BN06601031全国書誌番号:46068646 
  • 『巡査の記録』立花書房、1950年12月。 NCID BN1499614X全国書誌番号:51000828 
  • 『県政二十年』高知新聞社、1977年9月。 NCID BN14344273全国書誌番号:80001949 

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ a b 戦前の日本では、溝渕や秦野章日本大学専門部〈夜間部〉→高文行政科合格→内務省→警察庁〈警視総監〉)のような「無学歴者」が官界に入るには、高等試験司法科(戦後の司法試験)に合格して司法官(戦後の裁判官/検事)に任官するのが順当であり、高等試験行政科(戦後の国家公務員上級試験)に合格して行政官(キャリア官僚)に任官するのは遙かに難しかった[3]。秦野は、秦野の将来を嘱望する上司(自らがキャリア官僚であり、高文行政科の難しさを熟知していた)から「〔無学歴で高文行政科を目指すなど〕君、そんなことむちゃだ。よせよ(〔〕内は引用者が挿入)[3]と忠告されたと言う。

出典

[編集]
  1. ^ a b c 内政問題研究会 1954, p. 190
  2. ^ 溝淵 1950, p. 147
  3. ^ a b 秦野 1988, pp. 76–78, 第1章 山は登るもの:高文行政科合格
  4. ^ 秦野 1988, p. 83
  5. ^ 溝淵 1950, p. 150

参考文献

[編集]
  • 内政問題研究会(編著)『官僚の系譜:権力の座に居る人たち』厚文社、1954年。 
  • 秦野章『逆境に克つ:「一日生涯」わが人生』講談社、1988年。 
  • 溝淵増巳『巡査の記録』立花書房、1950年。 

外部リンク

[編集]
公職
先代
川村和嘉治
高知県の旗高知県知事
公選第4-8代:1955年 - 1975年
次代
中内力