源平交代思想
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源平交代思想(げんぺいこうたいしそう)または源平交代説は、日本史上の武家政権は平氏(桓武平氏)と源氏(清和源氏)が革命(易姓革命)的に交代するという俗説のこと。室町時代ごろから一部で信じられていたと言われている。
概要
[編集]その説を平氏政権以降江戸時代までの実際の政権の推移に当てはめてみると以下のようになる。
信長の時代には源平交代思想が一部で信じられていたため、織田信長が平氏を称するようになったこと[1][2]と徳川家康が源氏を称するようになったこともこの思想に関連しているといわれるが、真偽のほどは不明である。また、織田政権と江戸幕府との間に、さらにまた源氏(明智光秀、美濃源氏)と平氏(豊臣政権・豊臣秀吉、平姓を自称[3])を入れる言説もある。
異説
[編集]関東における源平交代思想
[編集]源平交代思想は、豊臣氏という別姓が紛れた中央政権ではなく、関東において特に強く信じられ、実行されていたという説。この場合、家康が封ぜられる前に関東における実権をもっていた勢力は以下の通りである。
後北条氏滅亡後、関東への移封を命ぜられた家康はこの思想の元、源氏に改姓した上で関東に入り、その支配の正当性を示したという可能性もある。
脚注
[編集]- ^ 各種『織田系図』では、平清盛の子孫(重盛の次男資盛の子の親真=親実の子孫)となっているが、信用できず、越前国織田社の神職を継いで「織田氏」を称し、清盛から21代の子孫という伝承も(親真が実在したとしても)、織田氏と平氏を結び付けるための作為と見られる。和田裕弘『信長公記-戦国覇者の一級資料』(中公新書、2018年)p.18.
- ^ 織田町内に伝わる『忌部氏系図』では、親真の母は平忠度の娘であり、忌部親澄に嫁いで生まれた子が親真であり、「平氏にあらず」として、「忌部氏の正系」の方を強調する。『歴史読本3月号特集天皇家の閨閥 明治・大正・昭和の皇室』(新人物往来社、1988年)p.199.
- ^ 一時、「平姓」を名乗り、関白就任後は「藤原姓」、その後、「豊臣姓」となる。『歴史REAL 敗者の日本史 消えた豪族・武家・皇族』(洋泉社、2015年)p.71.
参考文献
[編集]- 岡野友彦『源氏と日本国王』(講談社現代新書、2003年) ISBN 4-06-149690-5
- 兵藤裕己『太平記〈よみ〉の可能性 歴史という物語』(講談社学術文庫、2005年) ISBN 4-06-159726-4