源伊陟
表示
時代 | 平安時代中期 |
---|---|
生誕 | 天慶元年(938年) |
死没 | 長徳元年5月22日(995年6月22日) |
官位 | 正三位、権中納言 |
主君 | 村上天皇→冷泉天皇→円融天皇→花山天皇→一条天皇 |
氏族 | 醍醐源氏 |
父母 | 父:兼明親王、母:源衆望の娘 |
兄弟 | 伊陟、伊行 |
子 | 頼之、伊頼、伊行、伊光、延漢、陟子 |
源 伊陟(みなもと の これただ)は、平安時代中期の公卿。醍醐天皇の孫。一品・兼明親王の子。官位は正三位・権中納言。
経歴
[編集]村上朝の天暦6年(952年)氏爵により従五位下に叙爵し、天暦9年(955年)侍従に任ぜられる。天暦10年(956年)左兵衛権佐になると、天徳2年(958年)左近衛少将と武官を歴任するが、天徳5年(961年)3月には神賢使となり宇佐神宮へ派遣されるが、道中で患って備後国で引き返し、同年8月には狂病を理由に左近衛少将を解任されている。
円融朝の天禄3年(972年)右少弁次いで左少弁に任官すると、天禄4年(973年)正五位下・右中弁、天延2年(974年)従四位下と、弁官を務めながら順調に昇進する。天延3年(975年)左兵衛督を経て、貞元2年(977年)参議に任ぜられ公卿に列した。その後も、天元3年(980年)従四位上、天元4年(981年)造営行事賞により正四位下と昇進を重ねた。
寛和元年(985年)花山天皇の大嘗祭で悠紀国司により従三位、翌寛和2年(986年)一条天皇の大嘗祭でも悠紀国司で正三位と、2年連続で大嘗祭で悠紀国司を務めて昇叙を果たした。永延3年(989年)権中納言に至る。長徳元年(995年)5月22日薨去。享年58。最終官位は正三位権中納言右衛門督。
官歴
[編集]『公卿補任』による。
- 天暦6年(952年) 正月7日:従五位下(氏爵)
- 天暦9年(955年) 10月:侍従
- 天暦10年(956年) 9月8日:左兵衛権佐
- 天徳2年(958年) 7月28日 左近衛少将。8月27日:昇殿
- 天徳4年(960年) 正月25日:兼近江権介
- 天徳5年(961年) 正月7日:従五位上。3月:為神賢使[注釈 1]。8月8日:停左少将(依狂病)[1]、権介如元
- 応和3年(963年) 9月9日:近江権介
- 応和4年(964年) 3月27日:民部少輔
- 天禄3年(972年) 3月20日:右少弁。12月15日:左少弁
- 天禄4年(973年) 正月7日:正五位下(弁労)。7月26日:右中弁
- 天延2年(974年) 正月7日:従四位下(弁労)。3月28日:昇殿(花宴時)。4月10日:蔵人
- 天延3年(975年) 正月26日:左兵衛督、停弁
- 天延4年(976年) 正月28日:兼周防権守
- 貞元2年(977年) 4月14日:参議
- 貞元3年(978年) 2月3日:兼備後権守
- 天元3年(980年) 正月7日:従四位上
- 天元4年(981年) 12月4日:正四位下(造営行事賞)
- 天元5年(982年) 止権守
- 天元6年(983年) 正月27日:兼備中権守。11月11日:兼近江権守
- 寛和元年(985年) 11月30日:従三位(悠紀国司)
- 寛和2年(986年) 3月5日:兼播磨守。8月13日:兼近江守。11月18日:正三位(悠紀国司賞)
- 永延2年(988年) 2月27日:兼右衛門督
- 永延3年(989年) 2月23日:権中納言、止守督。11月28日:兼太皇太后宮権大夫(太皇太后・昌子内親王)
- 永祚2年(989年) 正月29日:兼右兵衛督。2月10日:着座
- 正暦5年(994年) 9月8日:兼右衛門督
- 正暦6年(995年) 正月13日:中納言?。5月22日:薨去(正三位権中納言右衛門督)[2]
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 宇佐へ出向くが、道中患って備後で引き返す。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
- 『尊卑分脈 第三篇』吉川弘文館、1987年
軍職 | ||
---|---|---|
先代 藤原道頼 |
右衛門督 994 - 995 |
次代 藤原実資 |
先代 藤原高遠 |
右兵衛督 989 - 994 |
次代 源俊賢 |
先代 源忠清 |
右衛門督 988 - 989 |
次代 藤原道長 |
先代 藤原済時 |
左兵衛督 975 - 977 |
次代 藤原時光 |