深尾重先
表示
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
---|---|
生誕 | 文政10年(1827年)[1] |
死没 | 明治23年(1890年)1月30日 |
別名 | 通称:鼎 |
主君 | 山内豊信→豊範 |
藩 | 土佐藩 |
氏族 | 深尾家 |
父母 |
父:深尾重愷、母:深尾成有娘 養父:深尾重教 |
兄弟 | 養兄弟:重哀、重愛 |
子 | 養子:重愛(深尾重教の子) |
深尾 重先(ふかお しげもと)は、江戸時代後期の土佐藩の重臣。深尾家当主・佐川領主10代。
略歴
[編集]嘉永6年(1853年)に伯父の9代当主・深尾重教が死去した際、重教の子の重愛は幼かったため、重先が養子に入り家督を継ぐ。その際、重愛は重先の養子となる。
安政2年(1855年)、奉行職に就く。勤王家で尊攘論が沸騰し、万延元年(1860年)、藩より蟄居を命じられたため養子の重愛が一時家督を継ぐが、文久2年(1862年)に処分が解かれ復職し、山内容堂に用いられた。そのため重愛は継嗣に戻っている。
慶応3年(1867年)、徳川慶喜が将軍職を辞した時、容堂に従って上京し尽くすことが多かった。鳥羽・伏見の戦いでは、容堂と共に土佐兵を抑えようとしたが、水泡に帰す。慶応4年(1868年)2月の堺事件には容堂に代わって事を処し、同年3月に京師詰を命じられ、7月に参内し土佐藩重臣として藩主を補佐した。明治2年(1869年)6月の版籍奉還後の諸政改革にも力を用い、功績を挙げた。明治4年(1871年)に隠居し、再び重愛が家督を継いだ。
明治23年(1890年)1月30日、死去。享年64。南洋拓殖社長や日本サッカー協会会長等を務めた深尾隆太郎は嫡孫[2]。
脚注
[編集]- ^ 『佐川町誌』(佐川町自治会、1919年)p.387では文化10年(1813年)1月13日生まれ。
- ^ 「深尾隆太郞 (男性)」人事興信録データベース第4版 [大正4(1915)年1月](名古屋大学大学院法学研究科)
出典
[編集]- 『高知県人名事典』高知市民図書館、1970年。
|
|