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河辺定長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
河辺 定長
時代 江戸時代前期
生誕 寛永11年(1634年
死没 万治3年12月2日1661年1月2日
官位 神祇権大副
主君 明正天皇後光明天皇後西天皇
氏族 大中臣氏一門河辺家
父母 父:河辺徳長
養子:河辺兼長
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河辺 定長(かわべ さだなが)は、日本の公家神宮祭主

生涯

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大中臣氏一門の河辺徳長の子として生まれる。

正保3年(1647年)、13歳のとき、実の祖父・河辺辰長の跡を継いで大宮司に就任する。その後、承応2年(1653年)、二十歳のとき、出自について大中臣氏二門であることが条件となっていた祭主に、一門出身でありながら就任した。翌年には、出口延佳の『陽復記』を後光明天皇の叡覧に入れたことがきっかけとなって、定長は神祇権大副に任じられた[1]

明暦元年(1655年)、定長は罹病し、祭主としての職務を行えなくなった。嗣子の無い定長は、北小路俊臣の次男を改姓させ、祭主後継として養子に迎え入れた[2]。これに対して大宮司河辺精長が反発したことにより、後継を何年も決めることができず、その最中に27歳で卒去した[3]

官歴

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系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^ 同日、河辺精長が大宮司に就任した[4]

出典

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  1. ^ a b 音羽悟 2013, p. 50.
  2. ^ 平井誠二 2000, p. 188–189.
  3. ^ 音羽悟 2013, p. 54.
  4. ^ a b 神宮司庁 1929, p. 637.

参考文献

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