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池田喜生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
池田喜生
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 延享2年(1745年
死没 文化10年7月24日1813年8月19日
改名 保次郎、喜生
官位 従五位下但馬守
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川家治家斉
氏族 奥平氏池田氏(輝澄流)
父母 奥平昌敦牧野貞通娘菊子
池田喜以
兄弟 奥平昌鹿喜生山野辺義風
池田喜以
輝名池田輝名室島津忠厚
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池田 喜生(いけだ よししげ)は、江戸時代中期から後期にかけての旗本官位従五位下但馬守

略歴

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延享2年(1745年)、豊前国中津藩主・奥平昌敦の次男として誕生。幼名は保次郎。母は牧野貞通の娘・菊子(心源院)。奥平昌鹿の同母弟にあたる。

のちに播磨国福本藩鳥取藩の支藩。実際には相続分与などの1万石割れのため、交代寄合)の4代当主池田喜以庸熈を婿養子に迎えていたが、庸熈の死去によって後継者を失っていた。家を継承すべく喜生が婿養嗣子に望まれ、喜以の娘(元・庸熈の室)を室とし婿養子となった。

安永元年(1772年4月10日、喜以の辞仕に伴い家督を継ぐ。寛政3年(1791年7月1日大番頭となり、同年12月16日、従五位下但馬守に叙任した。寛政7年(1795年12月12日には伏見奉行となった。

後継者として婿養子入りした喜生であったが、喜生自身にも後継者がいなかった。一方、先代当主の喜以には、実子の池田政貞がいた。分家の旗本家[1]を継いでいたこの政貞の娘を喜生は養女とし、池田輝名を婿養子に迎えて後嗣とした。しかし輝名は喜生より先に死去してしまったため、輝名の子の喜長を後継者とした。

文化10年7月24日1813年8月19日)、死去した。跡を喜長が継いだ。

系譜

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脚注

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  1. ^ 喜以の先代の池田政森の弟の家。池田政親が分知を受けて1千石。政親-政勝そして養子の政貞、となる。