池上秀畝
池上秀畝 | |
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生誕 |
池上国三郎 1874年10月11日 長野県上伊那郡高遠町 |
死没 |
1944年5月26日(69歳没) 東京都下谷区 |
墓地 | 谷中霊園 |
国籍 | 日本 |
教育 | 荒木寛畝 |
著名な実績 | 日本画 |
池上 秀畝(いけがみ しゅうほ、1874年(明治7年)10月11日[1][2][3] - 1944年(昭和19年)5月26日[1][2][3])は、明治時代から昭和にかけての日本画家。特に山水・花鳥画を得意とした。
略歴
[編集]長野県上伊那郡高遠町(現在の伊那市)に紙商兼小間物屋の次男として生れる[4]。本名は國三郎。祖父池上休柳は、家業は番頭に任せて高遠藩・御用絵師に狩野派を学び、慶応2年(1866年)には自らの画論『松柳問答』を刊行、その翌年亡くなっている。父池上秀華も、岡本豊彦から四条派を学び、祖父と同様、俳句や短歌を詠み、茶道や華道に凝るといった趣味三昧の生活ぶりだったという。今でも高遠から上伊那各地の旧家には、彼らの作品が所蔵されている。のちに秀畝が口述筆記させた自伝では、生まれた時からこのような環境だったので、絵の描き方を自然に覚えたと語っている。明治21年(1888年)頃には、自ら「國山」の号を用い、自作に「圀山」印を押すようになる。
明治22年(1889年)15歳で小学校を卒業後、本格的に絵師になるために父と共に上京。瀧和亭、川辺御楯を訪ねるが父は気に入らず、結局親戚から紹介され当時無名だった荒木寛畝の最初の門人・内弟子となり4年間を過ごし文人画を学ぶ[3][4]。一時は洋画も研究するが、これは寛畝がやめさせている。明治39年(1906年)同じ門下生の大岡豊子(緑畝)と結婚。同年、詩画堂塾と称していた寛畝塾は、新たに詩画会を起こし、太平洋戦争で自然解散する昭和17年まで続けられるが、秀畝はその中心人物となる。
明治40年(1907年)正派同志会第1回展で二等銀牌[5]、翌年の文部省美術展覧会で初入選する。大正5年(1916年)から3年連続で文展特選となるも[1]、大正7年(1918年)同志と共に新結社を結び、文展審査に不満を示し、文展改革の口火を切る[5]。大正8年(1919年)、発足したばかりの帝展で無鑑査となる[3]。昭和8年(1933年)、帝展審査員[3]。伝神洞画塾を主宰し後進の指導に尽力した[1]。晩年になっても力作を次々と発表したが、第二次世界大戦の最中の昭和19年(1944年)5月26日に東京都下谷区の自宅で狭心症により没した[5]。戒名は清高院殿韓山秀畝大居士。谷中霊園に葬られ、菩提寺はその近くの天台宗東叡山津梁院。昭和25年(1950年)伊那公園に、池上家三代の絵師を顕彰する『画人三代碑』が建てられた。
令和6年(2024年)生誕150年にあたり、故郷伊那市では記念展を高遠町歴史博物館(2月23日から6月16日)、信州高遠美術館(3月2日から5月19日)、伊那市創造館(3月16日から5月27日)、長野県伊那文化会館(3月30日から5月12日)でそれぞれの館で企画し開催する。また練馬区立美術館(3月16日から4月21日)と長野県立美術館(5月25日から6月30日)でも代表作品を展示する巡回展を開催 [6]。
代表作
[編集]作品名 | 技法 | 形状・員数 | 寸法(縦x横cm) | 所有者 | 年代 | 出品展覧会 | 落款・印章 | 備考 |
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秋色 | 北野美術館 | 明治40年(1907年) | ||||||
初冬 | 紙本著色 | 六曲一双 | 167.0x364.0(各) | 東京国立近代美術館 | 明治43年(1910年 | 第4回文展三等賞 | ||
晴潭 | 屏風 | 田中本家博物館 | 大正3年(1914年) | |||||
秋晴 | 絹本著色 | 六曲一双 | 三の丸尚蔵館 | 大正4年(1915年) | 第9回文展二等賞 | |||
夕月 | 紙本著色 | 六曲一双 | 159.5x360.0(各) | 東京国立近代美術館 | 大正5年(1916年) | 第10回文展特選第二席 | ||
峻嶺雨後 | 絹本著色 | 六曲一双 | 目黒雅叙園 | 大正6年(1917年) | 第11回文展特選第七席 | |||
四季花鳥 | 紙本著色 | 四幅対 | 長野県立美術館 | 大正7年(1918年) | 第12回文展特選第五席 | |||
雨中竹屏風 | 紙本著色 | 四曲一双 | 208.0x304.5(各) | 佐久市立近代美術館 | 大正8年(1919年) | 款記「大正己未應鐘上浣 秀畝畫之」[7] | ||
桜花雙鳩・秋草郡鶉図 | 絹本金地著色 | 二曲一双 | 168.0x165.0(各) | 練馬区立美術館 | 大正10年(1921年) | |||
夏より秋図 | 紙本著色 | 六曲一双 | 177.4x383.4(各) | 個人(静岡県立美術館寄託) | 大正12年(1921年) | 第4回帝展 | ||
国之華 | 紙本金地著色 | 六曲一双 | 186.6x434.8(各) | 三の丸尚蔵館 | 大正13年(1924年) | 昭和天皇御成婚の際、藤田平太郎より献上 | ||
紅葉谷川 | 屏風 | 田中本家博物館 | 大正時代 | |||||
松に白鷹図 | 杉戸著色 | 2枚 | 約200.0x130.0(各) | 練馬区立美術館寄託 | 昭和3年(1928年) | 荒木寛畝と合作 | ||
巨浪群鵜図屏風 | 絹本著色 | 六曲一双 | 168.0x362.0 | 松岡美術館 | 昭和7年(1932年) | |||
吐綬鶏 | 紙本彩色 | 六曲一双 | 韓国国立中央博物館 | 昭和11年(1936年)[8] |
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「初冬」1910年
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「松に鶴図屏風」(1912-1926年)
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「夕月」(1916年)
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「咆哮」(1942年)
脚注
[編集]- ^ a b c d “池上秀畝(いけがみ・しゅうほ)” (PDF). 近代版画家名覧(1900-1945). 版画堂. pp. 67-68. 2018年8月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月17日閲覧。
- ^ a b “池上 秀畝 イケガミ シュウホ”, 20世紀日本人名事典, 日外アソシエーツ, (2004)
- ^ a b c d e “池上秀畝 いけがみ-しゅうほ”, デジタル版 日本人名大辞典+Plus, 講談社, (2015)
- ^ a b “池上秀畝”. 伊那市 (2019年4月1日). 2021年10月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月17日閲覧。
- ^ a b c “池上秀畝 日本美術年鑑所載物故者記事”. 東京文化財研究所 (2019年6月6日). 2021年9月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月17日閲覧。
- ^ 伊那市内の「池上秀畝生誕150年展」をめぐって秀畝カードを集めよう! - 伊那市
- ^ 佐久市立近代美術館編集・発行 『佐久市立近代美術館 開館30周年記念 所蔵作品選 〔時代〕図録』 2013年5月11日、p.15。なお当該ページや公式サイトでは、当作品を1916年作と記しているが、大正年間で己未に該当するのは1919年である。
- ^ 京都国立近代美術館 東京芸術大学大学美術館 朝日新聞社編集 『─韓国国立中央博物館所蔵─日本近代美術展』 NHK 朝日新聞社、2003年4月3日、pp.40-41。
参考文献
[編集]- 『思文閣墨蹟資料目録 和の美』454号、2010年
- 展覧会図録
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー 池上秀畝・池上緑畝 - ウェイバックマシン(2014年7月10日アーカイブ分)
- 池上秀畝 - 東京文化財研究所
- 池上秀畝の作品展示美術館[リンク切れ]