永慶帝
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後廃帝 黎維祊 | |
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後黎朝 | |
第25代皇帝 | |
王朝 | 後黎朝 |
在位期間 | 1729年5月18日 - 1732年8月 |
姓・諱 | 黎維祊 |
生年 | 永盛5年(1709年) |
没年 | 永佑元年(1735年)9月 |
父 | 裕宗 |
母 | 鄭氏玉欉 |
后妃 | 鄭氏玉㮒 |
陵墓 | 金縷社 |
元号 | 永慶 : 1729年 - 1732年 |
後廃帝(こうはいてい、ハウ・フェ・デ、ベトナム語:Hậu Phế Đế / 後廢帝)は、後黎朝大越中興期の第25代皇帝。名は黎 維祊(レ・ズイ・フォン、ベトナム語:Lê Duy Phường / 黎維祊)[1]。治世の元号から永慶帝(えいけいてい、ヴィン・カイン・デ、ベトナム語:Vĩnh Khánh Đế / 永慶帝)とも呼ばれる。
生涯
[編集]裕宗の次男。母は正宮の鄭氏玉欉(定南王鄭根の子の提郡公鄭閏の長女)。保泰8年7月8日(1727年8月24日)に立太子された[2]。保泰10年4月21日(1729年5月18日)、安都王鄭棡から脅迫を受けた父帝から譲位されて21歳で即位し、永慶と改元した[2]。鄭棡の娘の鄭氏玉㮒を皇后とした。
永慶4年(1732年)、「淫恣無忌」であるとして威南王鄭杠によって廃位され、昏徳公に降封、幽閉された[1]。兄の純宗死後の永佑元年(1735年)に鄭杠が遣わした手の者によって縊殺され、永佑6年(1740年)に青池県金縷社(現在のハノイ市ホアンマイ区ダイキム坊)に葬られた[3]。
出典
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