殷汝驪
殷汝驪 | |
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『現代支那人名鑑 改訂』1928年 | |
プロフィール | |
出生: | 1883年(清光緒9年) |
死去: |
1940年(民国29年) 中華民国四川省成都市 |
出身地: | 清浙江省温州府平陽県 |
職業: | 革命家・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 殷汝驪 |
簡体字: | 殷汝骊 |
拼音: | Yīn Rǔlí |
ラテン字: | Yin Ju-li |
和名表記: | いん じょれい |
発音転記: | イン・ルーリー |
殷 汝驪(いん じょれい)は、中華民国の革命家・政治家。中国同盟会以来の革命派人士である。字は鋳夫。弟は殷汝耕。孫娘に殷琪(前・台湾高速鉄道董事長)がいる。
事績
[編集]上海震旦大学卒業後に日本へ留学し、早稲田大学に入学した。1910年(宣統2年・明治43年)に専門部政治経済科、翌1911年(宣統3年・明治44年)に大学部政治経済学科をそれぞれ卒業している[1]。なお、在学期間中に中国同盟会へ加入した。帰国すると、湖北法政学堂教習に任命された[2][3][4]。
中華民国成立後に統一共和党で常務幹事となる。1913年(民国2年)、衆議院議員に選出された。しかし二次革命(第二革命)で孫文(孫中山)に与して敗北し、日本に亡命している[2][3]。日本では革命派の軍事学校である「浩然廬(浩然学社)」の創設に携わり[4]、さらに1914年(民国3年)、欧事研究会の発起人に名を列ねた(弟の殷汝耕も構成員となっている)[5]。同年帰国し、『時事新報』(上海)の設立に携わる[2][4]。
1916年(民国5年)7月27日、北京政府財政部次長署理に任ぜられる[6]。しかし1917年(民国6年)4月、精銅工場から賄賂を受け取ったとの疑惑をかけられて逃亡し(後に事実無根と判明)、孫文らの広東軍政府に合流した[2][3][4]。1920年(民国9年)、瓊崖実業交通事務処処長に任ぜられる。後に江蘇省銀行総経理となった[2][3]。
国民政府では、1927年5月2日に福建省政府委員に任命された[7]。8月には国民政府財政部国税特派員、10月25日には福建塩運使もそれぞれ兼任している[8]。1928年(民国17年)8月27日、これらの職を辞任している[9][10]。1932年(民国21年)1月7日、国民政府文官処参事に任ぜられた[11]。後に職を離れ、上海で会計士となる。その傍ら、旅滬全浙公会主席団主席、東北義勇軍後援会常務理事をつとめた。日中戦争(抗日戦争)勃発後は四川に移って活動を続けた[2][3]。晩年は書画を楽しんだという[4]。1940年(民国29年)、成都市で病没[2][3]。享年58。
脚注
[編集]- ^ 早稲田大学校友会(1934)、94頁。
- ^ a b c d e f g 徐主編(2007)、1248頁。
- ^ a b c d e f 劉国銘主編(2005)、1986頁。
- ^ a b c d e 中華民国財政部ホームページ。
- ^ 謝・李(1999)。
- ^ 『政府公報』第203号、1916年(民国5年)7月28日。
- ^ 『国民政府公報』第3号、5頁。
- ^ 『国民政府公報』第3号、22頁。
- ^ 『国民政府公報』第87号、6頁。
- ^ 徐主編(2007)、1248頁によると、1928年2月に福建省民政庁庁長に就任したとあるが、『国民政府公報』や劉寿林ほか編(1995)では確認できない。
- ^ 『国民政府公報』第971号、1頁。
著書
[編集]- 『亡国鑑』泰東図書局(上海), 1924年(編集。所収されている「印度亡国鑑」を執筆)
- 『開発瓊崖』
- 『瓊崖調査記』
参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 「殷汝驪」(財政部財政史料陳列室・財政人物索引)中華民国財政部ホームページ
- 謝彬『民国政党史』1924年(中華書局版、2007年、ISBN 978-7-101-05531-3)
- 謝本書・李成森『民国元老 李根源』雲南教育出版社、1999年。ISBN 7-5415-1704-6。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 『早稲田大学校友会会員名簿 昭和十年用』早稲田大学校友会、1934年。