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殷汝驪

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
殷汝驪
『現代支那人名鑑 改訂』1928年
プロフィール
出生: 1883年光緒9年)
死去: 1940年民国29年)
中華民国の旗 中華民国四川省成都市
出身地: 清の旗 浙江省温州府平陽県
職業: 革命家・政治家
各種表記
繁体字 殷汝驪
簡体字 殷汝骊
拼音 Yīn Rǔlí
ラテン字 Yin Ju-li
和名表記: いん じょれい
発音転記: イン・ルーリー
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殷 汝驪(いん じょれい)は、中華民国の革命家・政治家。中国同盟会以来の革命派人士である。鋳夫。弟は殷汝耕。孫娘に殷琪中国語版(前・台湾高速鉄道董事長)がいる。

事績

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上海震旦大学卒業後に日本へ留学し、早稲田大学に入学した。1910年宣統2年・明治43年)に専門部政治経済科、翌1911年(宣統3年・明治44年)に大学部政治経済学科をそれぞれ卒業している[1]。なお、在学期間中に中国同盟会へ加入した。帰国すると、湖北法政学堂教習に任命された[2][3][4]

中華民国成立後に統一共和党で常務幹事となる。1913年民国2年)、衆議院議員に選出された。しかし二次革命(第二革命)で孫文(孫中山)に与して敗北し、日本に亡命している[2][3]。日本では革命派の軍事学校である「浩然廬(浩然学社)」の創設に携わり[4]、さらに1914年(民国3年)、欧事研究会の発起人に名を列ねた(弟の殷汝耕も構成員となっている)[5]。同年帰国し、『時事新報』(上海)の設立に携わる[2][4]

1916年(民国5年)7月27日、北京政府財政部次長署理に任ぜられる[6]。しかし1917年(民国6年)4月、精銅工場から賄賂を受け取ったとの疑惑をかけられて逃亡し(後に事実無根と判明)、孫文らの広東軍政府に合流した[2][3][4]1920年(民国9年)、瓊崖実業交通事務処処長に任ぜられる。後に江蘇省銀行総経理となった[2][3]

国民政府では、1927年5月2日に福建省政府委員に任命された[7]。8月には国民政府財政部国税特派員、10月25日には福建塩運使もそれぞれ兼任している[8]1928年(民国17年)8月27日、これらの職を辞任している[9][10]1932年(民国21年)1月7日、国民政府文官処参事に任ぜられた[11]。後に職を離れ、上海で会計士となる。その傍ら、旅滬全浙公会主席団主席、東北義勇軍後援会常務理事をつとめた。日中戦争(抗日戦争)勃発後は四川に移って活動を続けた[2][3]。晩年は書画を楽しんだという[4]1940年(民国29年)、成都市で病没[2][3]。享年58。

脚注

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  1. ^ 早稲田大学校友会(1934)、94頁。
  2. ^ a b c d e f g 徐主編(2007)、1248頁。
  3. ^ a b c d e f 劉国銘主編(2005)、1986頁。
  4. ^ a b c d e 中華民国財政部ホームページ。
  5. ^ 謝・李(1999)。
  6. ^ 『政府公報』第203号、1916年(民国5年)7月28日。
  7. ^ 『国民政府公報』第3号、5頁。
  8. ^ 『国民政府公報』第3号、22頁。
  9. ^ 『国民政府公報』第87号、6頁。
  10. ^ 徐主編(2007)、1248頁によると、1928年2月に福建省民政庁庁長に就任したとあるが、『国民政府公報』や劉寿林ほか編(1995)では確認できない。
  11. ^ 『国民政府公報』第971号、1頁。

著書

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  • 『亡国鑑』泰東図書局(上海), 1924年(編集。所収されている「印度亡国鑑」を執筆)
  • 『開発瓊崖』
  • 『瓊崖調査記』

参考文献

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  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0 
  • 「殷汝驪」(財政部財政史料陳列室・財政人物索引)中華民国財政部ホームページ
  • 謝彬『民国政党史』1924年(中華書局版、2007年、ISBN 978-7-101-05531-3
  • 謝本書・李成森『民国元老 李根源』雲南教育出版社、1999年。ISBN 7-5415-1704-6 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 『早稲田大学校友会会員名簿 昭和十年用』早稲田大学校友会、1934年。