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横山隆俊 (男爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
横山隆俊
よこやま たかとし
生年月日 1876年9月25日
出生地 日本の旗 日本 石川県石川郡金沢
没年月日 (1933-12-19) 1933年12月19日(57歳没)
出身校 専修学校卒業
(現・専修大学
所属政党 公正会
称号 従五位
配偶者 横山彰
子女 長男・横山隆良

在任期間 1918年7月10日 - 1925年7月9日
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横山 隆俊(よこやま たかとし、1876年明治9年)9月25日[1] - 1933年昭和8年)12月19日[1][2])は、明治から昭和期の実業家政治家華族貴族院男爵議員従三位勲四等加賀八家横山家第14代当主[3]

経歴

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石川県石川郡金沢加賀八家横山家当主・横山隆平の長男として生まれる[1][4][5]。父の死去に伴い、1903年(明治36年)8月14日に男爵を襲爵した[1][4][6]

第四高等学校補充科で学び、その後、東京に出て専修学校に入学し、田尻稲次郎阪谷芳郎などから理財学を学び、1897年(明治30年)に卒業し帰郷した[4][5][7]。父が経営していた尾小屋鉱山に入り事業の拡大を図った[4][7]。また親族横山隆興が経営していた平金鉱山岐阜県)と合併して横山鉱業部を設立し、さらに大蔵鉱山山形県)、宮田又鉱山秋田県)などを買収して経営を拡大した[4][7]

その他、石川県教育会会長、加州銀行頭取、共同生命保険社長、金沢電気軌道社長、ブラジル拓殖取締役、金沢商業会議所特別議員、北陸絵画協会会長などを務めた[4][5][7]。また、東京に旧加賀藩領(石川県富山県)出身者のための寄宿舎・明倫館(明倫学館)を林賢徳、横山隆興、塩屋方圀らと計って設立し、後進の育英事業に尽力した[4][7]

1918年(大正7年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され[8][9]公正会に所属して活動し1925年(大正14年)7月9日まで1期在任した[2]

栄典

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親族

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  • 妻:彰(あや、不破為則長女)[1]
  • 長男:隆良(男爵)[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f 『平成新修旧華族家系大成 下巻』822頁。
  2. ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』88頁。
  3. ^ 「加賀八家「殿様」たちの末裔 藩主支えた絆 旧男爵家の誇りは今も」『月刊北国アクタス』2014年8月号
  4. ^ a b c d e f g 『華族畫報 下』636頁。
  5. ^ a b c 『人事興信録 第9版』ヨ18頁。
  6. ^ 『官報』第6037号、明治36年8月15日。
  7. ^ a b c d e 『大日本人物誌』よ41-42頁。
  8. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、27頁。
  9. ^ 『官報』第1788号、大正7年7月18日。
  10. ^ 『官報』第5159号「叙任及辞令」1900年9月11日。

参考文献

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  • 成瀬麟、土屋周太郎編『大日本人物誌 : 一名・現代人名辞書』八紘社、1913年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
  • 杉謙二編『華族畫報』下、吉川弘文館、2011年(華族画報社大正2年刊の複製)。


日本の爵位
先代
横山隆平
男爵
横山家第2代
1903年 - 1933年
次代
横山隆良