松平忠尚
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 慶安4年(1651年) |
死没 | 享保11年1月29日(1726年3月2日) |
改名 | 源次郎(幼名)、乗守(初名)、忠尚 |
墓所 | 東京都墨田区向島の弘福寺 |
官位 | 従五位下宮内少輔、宮内大輔 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉→家宣→家継→吉宗 |
藩 | 陸奥白河新田藩主→陸奥桑折藩主 |
氏族 | 大給松平家→奥平松平家 |
父母 |
松平乗久、水野忠善娘 松平忠弘 |
兄弟 |
忠尚、乗春、安乗、明乗、乗門、乗清、 好乗、乗重、忠泰、稲葉正相、 松平近苗正室、松平乗包正室 |
妻 | 松平忠弘次女・長福姫 |
子 |
乗良 忠泰、忠暁、法雲院 |
松平 忠尚(まつだいら ただなお)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。陸奥国白河新田藩主、のちに陸奥桑折藩初代藩主。官位は従五位下・宮内大輔。忠尚系奥平松平家初代。
生涯
[編集]慶安4年(1651年)、肥前国唐津藩主・松平乗久の長男として誕生。初名は乗守。
白河藩主・松平忠弘には、健康面で優れぬ長男・清照だけがあり、その他3人の男子は成人しないまま亡くなっていた。そこで乗守が忠弘の婿養子となり、忠尚と改名した。
しかし、忠尚は家中において人望がなかった上、正室との間に儲けた仙千代(乗良)に夭折されたばかりか、正室にも先立たれた。追い討ちをかけるように清照に嫡男・忠雅が誕生し、忠弘との仲が疎遠になった。その結果、次の家督を巡って家中が分裂、お家騒動まで発展した。5代将軍・徳川綱吉の命令で、忠尚は白河藩世子から外された上、元禄元年(1688年)10月、白河新田藩2万石を分与されて別家を立てることとなった。
元禄13年(1700年)1月11日、陸奥桑折藩に移封される。享保4年(1719年)11月2日、家督を弟・乗春の五男で養子の忠暁に譲って隠居する。享保11年(1726年)1月29日に病死した。享年76。
系譜
[編集]父母
正室
- 長福姫 ー 松平忠弘の次女
子女
- 松平乗良(長男)生母は長福姫(正室)
養子、養女
脚注
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