松平忠学
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 天明8年7月19日(1788年8月20日) |
死没 | 嘉永4年7月10日(1851年8月6日) |
改名 | 栄次郎(幼名)、忠学、松翁 |
別名 | 左近(通称) |
戒名 | 大信院殿奥智徳松翁大居士 |
墓所 | 東京都港区虎ノ門の天徳寺 |
官位 | 従五位下・伊賀守、内蔵頭 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 信濃上田藩主 |
氏族 | 藤井松平家 |
父母 |
父∶松平忠明、母∶松平忠常娘 養子∶松平忠済 |
妻 | 松平忠済娘光柏院、林氏、佐田氏 |
子 |
なし 養子∶忠和、忠優、三仙子、井上正春継室 |
松平 忠学(まつだいら たださと)は、江戸時代後期の大名。信濃国上田藩5代藩主。官位は従五位下・伊賀守、内蔵頭。伊賀守系藤井松平家7代。
生涯
[編集]天明8年(1788年)7月19日、上田藩主家分家で信濃更級郡5000石(塩崎知行所)の大身旗本である松平信濃守忠明の次男として誕生した。4代藩主・松平忠済の長男・忠英の早世から御家騒動が起こったため、宗家から忠済の養子として迎えられる。文化9年(1812年)5月6日、養父・忠済の隠居により家督を相続し、従五位下・伊賀守に叙位・任官する。
紅葉山火の番、桜田御門番などを歴任した。文化10年(1813年)に藩校・明倫堂を創設して文武を奨励している。
忠学は忠済の四男・忠和を養子としたが、忠和は夭逝する。このため文政13年(1830年)4月20日、代わって養子とした忠優(後の忠固)に家督を譲って隠居し、内蔵頭に遷任する。天保10年(1839年)10月に剃髪して松翁と号した。
系譜
[編集]父母
正室
- 光柏院 ー 松平忠済の娘
側室
- 林氏
- 佐田氏
養子、養女