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東陸橋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

東陸橋(ひがしりっきょう)は、かつて岐阜県岐阜市に架かっていた国道157号跨線橋。JR東海道本線高山本線をまたいでいる橋梁であった。

名古屋鉄道名古屋本線新岐阜駅手前にある線路橋(この区間が名古屋本線の単線区間である)の西に隣接していた。

岐阜市内中心部で東海道本線を跨ぐ跨線橋には、この東陸橋西陸橋があり、かつては岐阜バス行先表示幕にも経由地(バス停名ではない)として表示されるなど、岐阜市民の道路の目印となっていた。

全長120 m、車道は片側1車線で両側に歩道が設置されていた。

歴史

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  • 1913年(大正2年)7月22日:3代目岐阜駅が完成。この駅本体は当初計画より東に建設されたため、東海道本線で分断された八間道(神田町通り。現長良橋通り)と加納を結ぶ道路の迂回路として、東陸橋(初代、加納陸橋)が開通する。
  • 1914年(大正3年):東陸橋の西に隣接して、美濃電気軌道笠松線(現名古屋本線)の線路橋が開通する。当時の新岐阜駅は、東海道本線との交差部から90°西に急カーブと急勾配で下り、岐阜駅寄りの地平に位置していた。
  • 1948年(昭和23年):名古屋鉄道名岐線(現名古屋本線)の新岐阜駅を移転し各務原線の長住町駅と統合。2代目東陸橋開通までの間、道路は同駅南(陸橋北)で同線を踏切で横切る形になる。
  • 1956年(昭和31年)5月15日:名古屋本線の西に隣接して、東陸橋(2代目)が開通する。この東陸橋の北に接続する坂は、1914年 - 1948年の(美濃電→)名鉄線路敷の坂を再利用したものであった。
  • 1986年(昭和61年):岐阜駅周辺の高架化工事のため、東陸橋の補強工事が行なわれる。東陸橋のトラス部分が撤去され橋梁の強化補修が行なわれた。
  • 1998年(平成10年):東海道本線、高山本線の高架が完成。
  • 1999年(平成11年):東陸橋本体が撤去される。

現在

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  • 2代目陸橋の盛土部分のほとんどは2005年頃までに撤去されたが、名古屋本線に接する部分などに痕跡がある。また同線の東側には、初代陸橋の遺構である煉瓦造りの橋台が残っている。この橋台は線路橋のそれと一体化している。2011年12月に河合塾岐阜校旧校舎前に残っていた盛土を撤去、2012年3月に同校舎ビル解体、その隣に残っていた岐阜調理専門学校の旧校舎ビルも2013年2月に解体されて、道路西側の遺構は完全に消滅した。

その他

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  • 東陸橋の初代は1913年大正2年)の開通であるが、それ以前からこの場所に歩行者用の跨線橋は存在していたという。
  • 川端康成の短編小説「篝火」(1924年発表)は、1921年(大正10年)の岐阜が舞台であり、そのなかで登場する跨線橋が東陸橋に該当するという説がある。
  • 現在の岐阜バスでの系統記号・番号がEに該当する路線(加納島線・茜部三田洞線・加納南線・松籟加納線・岐南町線など)が、かつて東陸橋を経由していた路線である。
  • 東陸橋が存在した通りは、加納中通りと名づけられている。