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東横映画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
東横映畫株式會社
Toyoko Eiga Co., Ltd.
種類 株式会社
市場情報 合併消滅
略称 東横映画、東横、TYK
本社所在地 日本の旗 日本
東京都品川区五反田1丁目272番地 白木ビル3階(1951年)
本店所在地 京都府京都市右京区太秦西蜂ヶ丘9番地(撮影所、1951年)
設立 1938年6月8日
業種 サービス業
事業内容 映画の製作・配給・興行
代表者 五島慶太(1938年)
浦川睦臣(1944年)
黒川渉三(1946年)
比嘉良篤(1949年)
鈴木幸七(1949年)
資本金 30万円(1938年)
50万円(1943年)
300万円(1946年)
2,000万円(1947年)
5,000万円(1949年)
主要株主 東京横浜電鉄(のちの東京急行電鉄
主要子会社 東京映画配給(1949年 - 1951年)
関係する人物 マキノ光雄
特記事項:
略歴
1951年3月31日 太泉映画・東横映画との合併により消滅
1951年4月1日 東映設立
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東横映畫株式會社(とうよこえいが、1938年6月8日 設立 - 1951年3月31日 合併)は、かつて存在した日本の映画会社である。東急資本のもとに映画館経営から出発し、第二次世界大戦後に旧満洲映画協会(満映)のメンバーを中心にして、京都太秦の「大映第二撮影所」で劇映画を製作した。東映の前身の1社である。

略歴・概要

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1938年(昭和13年)6月8日、東京横浜電鉄(のちの東京急行電鉄)の興行子会社として設立。社長は同電鉄の五島慶太、資本金は30万円。設立に先立つ同年3月、渋谷に開場した「東横ニュース劇場」、同年11月に開場した「五反田東横劇場」を経営。1943年(昭和18年)、昭和興業、新宿興業、京浜興業を合併して資本金を50万円に増資、劇場を7館に増やす。

1944年(昭和19年)3月、五島に代り浦川睦臣が社長に就任、翌1945年(昭和20年)、空襲などで全劇場を喪失。同年8月15日の終戦を経て、同年12月、十条に映画館をオープン、明けて1946年(昭和21年)1月1日、渋谷の東横百貨店内大映作品と松竹作品を公開する映画館3スクリーンのほかに、3つの劇場をオープンする。同年2月、東急本社の黒川渉三専務が兼務で社長に就任。同年内に五反田東横映画劇場を再建、新宿に映画館を開き、「多摩川園」を吸収合併し、資本金を300万円に増資。同年11月、同社の定款に映画の製作・配給を加え、大映との提携を進めた。

1947年(昭和22年)、大映との協定を結び、「大映第二撮影所」を借りて製作する準備が始まる。同年9月、資本金を2,000万円に増資、同撮影所を「東横映画京都撮影所」とし、旧満映のメンバーを中心に製作を開始。設立第1作は稲垣浩監督、上原謙轟夕起子主演による『こころ月の如く』で、同年9月16日に大映の配給により公開する[1]

1949年(昭和24年)5月、資本金を5,000万円に増資、同年9月、黒川に代り比嘉良篤が社長に就任。同年10月1日、映画配給会社「東京映画配給」を設立、従来の大映から配給を移管。移管後の第1作は松田定次監督、片岡千恵蔵主演による『獄門島』で、同年11月20日から公開された [2]。同年12月、比嘉に代り鈴木幸七が社長に就任した。

1951年(昭和26年)4月1日、東横映画、太泉映画、東京映画配給の3社が合併して「東映」となる。東横映画撮影所は「東映京都撮影所」に、太泉映画スタジオは「東映東京撮影所」になり、東京映画配給の配給・興行の機構は、本社および支社、直営館として東映を構成した。

同社は、製作会社としては、1947年3本[1]、1948年10本[3]、1949年12本[2]、1950年26本[4]、1951年6本[5]、合計57本を製作した。

2012年(平成24年)7月現在、東京国立近代美術館フィルムセンターは、『のど自慢狂時代』(監督斎藤寅次郎、1949年)、『獄門島』(監督松田定次、1949年)、『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』(監督関川秀雄、1950年)、『殺陣師段平』(監督マキノ正博、1950年)の4作のほか[6]、『三本指の男』(監督松田定次、1947年)[7]、『にっぽんGメン 第二話 難船﨑の血鬪』(監督松田定次、1950年)[8]、『乱れ星荒神山』 (監督萩原遼、1950年)[9]、『千石纏』(監督マキノ雅弘、1950年)[10]、『女賊と判官』(監督マキノ雅弘・萩原遼、1951年)[11]の5作の上映用プリントを新たに収蔵した。東映チャンネルは、上記のほか、『にっぽんGメン』(監督松田定次、1948年)[12]、『旗本退屈男捕物控 七人の花嫁』(監督松田定次、1950年)[13]、『旗本退屈男捕物控 毒殺魔殿』(同)[14]、および『レ・ミゼラブル あゝ無情 第一部 神と悪魔』(監督伊藤大輔、1950年)と 『レ・ミゼラブル あゝ無情 第二部 愛と自由の旗』(監督マキノ雅弘、1950年)を133分にまとめた「総集篇」[15]を放映している。福岡市総合図書館が所蔵するものは、上記『殺陣師段平』のみである[16]。全57作中、13作のみ、現存が確認されているということである。

企業データ

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  1. 五島慶太 (1938年)
  2. 浦川睦臣 (1944年)
  3. 黒川渉三 (1946年)
  4. 比嘉良篤 (1949年)
  5. 鈴木幸七 (1949年)
撮影所

フィルモグラフィ

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のど自慢狂時代』、1949年。
こんな女に誰がした』、1949年。

大映の配給

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1947年 [1]
1948年 [3]
1949年 [2]

東京映画配給の配給

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1949年 [2]
1950年 [4]
1951年 [5]

東宝の配給

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1951年

脚注

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  1. ^ a b c 1947年 公開作品一覧 109作品日本映画データベース、2012年7月18日閲覧。
  2. ^ a b c d 1949年 公開作品一覧 171作品、日本映画データベース、2012年7月18日閲覧。
  3. ^ a b 1948年 公開作品一覧 134作品、日本映画データベース、2012年7月18日閲覧。
  4. ^ a b 1950年 公開作品一覧 234作品、日本映画データベース、2012年7月18日閲覧。
  5. ^ a b 1951年 公開作品一覧 216作品、日本映画データベース、2012年7月18日閲覧。
  6. ^ 所蔵映画フィルム検索システム東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年7月18日閲覧。
  7. ^ 三本指の男、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年7月18日閲覧。
  8. ^ にっぽんGメン 第二話 難船﨑の血鬪、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年7月18日閲覧。
  9. ^ 乱れ星荒神山、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年7月18日閲覧。
  10. ^ 千石纏、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年7月18日閲覧。
  11. ^ 女賊と判官、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年7月18日閲覧。
  12. ^ にっぽんGメン、東映チャンネル、2012年7月19日閲覧。
  13. ^ 旗本退屈男捕物控 七人の花嫁、東映衛星放送、2012年7月19日閲覧。
  14. ^ 旗本退屈男捕物控 後篇 毒殺魔殿、東映衛星放送、2012年7月19日閲覧。
  15. ^ レ・ミゼラブル あゝ無情、東映衛星放送、2012年7月19日閲覧。
  16. ^ 日本劇映画福岡市総合図書館、2012年7月19日閲覧。
  17. ^ a b c 『映画年鑑 1951』、p.219.
  18. ^ ホームラン狂時代、日本映画データベース、2012年7月18日閲覧。

参考文献

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関連事項

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外部リンク

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