本多忠升
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 寛政3年10月9日(1791年11月4日) |
死没 | 安政6年8月22日(1859年9月18日) |
改名 |
説三郎(幼名)、忠升、 鹿門・昧翁・冬日庵(法号) |
戒名 | 光徳院有誉充実昧翁 |
墓所 | 東京都江東区白河の霊巌寺 |
官位 | 従五位下、丹後守、伊予守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 伊勢国神戸藩主 |
氏族 | 本多氏 |
父母 | 父:本多忠薫、養父:本多康匡、本多忠奝 |
妻 | 正室:松平忠告の娘 |
子 |
娘(松平正義継室)、忠寛、娘(中井正路室)、娘(下條三圭室)、娘(木下某室、のち永井直次正室)、曽我助省(三男)、鈴木正義(四男)、 水野忠昌(五男)、娘(松前昌広正室のち山口弘敞正室)、娘(松平定振正室のち本多忠貫正室)、娘(松平信敏継室)、賢承、 娘(河辺長量室)、娘(朝比奈承為養女) |
寛政3年(1791年)10月9日、本家の近江膳所藩の嫡子本多忠薫の四男として生まれる。享和2年(1802年)7月に神戸藩の第4代藩主本多忠奝の養子となる。享和3年(1803年)、忠奝の死去により家督を継いだ。
大坂加番代、江戸城各門番、日光祭祀奉行代などを歴任した。藩政では藩学を朱子学に統一し、藩校を教倫堂と改めた。天保11年(1840年)9月20日、病気を理由に家督を次男の忠寛に譲って隠居する。安政4年(1857年)4月に剃髪して昧翁と号した。安政6年(1859年)8月22日に死去した。享年69。
系譜
[編集]父母
正室
- 松平忠告の娘
子女
- 本多忠寛(次男)
- 曽我助省(三男)
- 鈴木正義(四男)
- 水野忠昌(五男)
- 本多賢承
- 松平正義継室、生母は正室
- 中井正路室
- 下條三圭室
- 木下某室のち永井直次正室
- 源・松前昌広正室のち山口弘敞正室
- 松平定振正室のち本多忠貫正室
- 瑠璃・松平信敏継室
- 河辺長量室
- 朝比奈承為の養女