斜里錦菊三
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斜里錦 菊三(しゃりにしき きくぞう、1917年7月12日 - 1950年1月22日)は、北海道斜里郡斜里町出身で二所ノ関部屋に所属した大相撲力士。本名は京堂 菊三(きょうどう きくぞう)。最高位は西前頭18枚目(1943年1月場所)。現役時代の体格は173cm、102kg。得意手は右四つ、押し[1]。
来歴
[編集]18歳の時に上京し、二所ノ関部屋へ入門。1936年1月場所で初土俵を踏んだ[1]。
入門時から最初の師匠である横綱・玉錦に期待され(四股名は、出身地の斜里郡斜里町と師匠の四股名に由来)、1936年5月場所で序ノ口に付いてから勝ち越しを続け、1939年1月場所で新十両に昇進した。ところがその場所直前に応召され、約3年の期間を経て1942年1月場所より角界に復帰した。
復帰後も勝ち越しを続け、1943年1月場所で新入幕を果たす[1]が、4勝11敗と大きく負け越して1場所で十両に逆戻り。以降は再入幕を目指し十両で奮闘するも、終戦直前に再び応召されたり、病気に罹ったりした事もあって幕内復帰は叶わなかった。
体力の衰えと病に伴って番付も徐々に下がり、最後は三段目18枚目まで陥落して1949年5月場所限りで廃業[1]。翌1950年1月22日、病気のため32歳で死去した。
主な成績・記録
[編集]- 通算成績:92勝90敗35休 勝率.504
- 幕内成績:4勝11敗 勝率.267
- 現役在位:27場所
- 幕内在位:1場所
- 各段優勝
- 序二段優勝:1回(1937年1月場所)
場所別成績
[編集]春場所 | 夏場所 | 秋場所 | ||||
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1936年 (昭和11年) |
(前相撲) | 西序ノ口9枚目 5–1 |
x | |||
1937年 (昭和12年) |
東序二段10枚目 優勝 6–0 |
東三段目6枚目 6–1 |
x | |||
1938年 (昭和13年) |
東幕下21枚目 9–4 |
東幕下3枚目 4–3 |
x | |||
1939年 (昭和14年) |
東十両15枚目 – 応召 |
十両 – 応召 |
x | |||
1940年 (昭和15年) |
十両 – 応召 |
十両 – 応召 |
x | |||
1941年 (昭和16年) |
十両 – 応召 |
十両 – 応召 |
x | |||
1942年 (昭和17年) |
十両 10–5 |
東十両6枚目 9–6 |
x | |||
1943年 (昭和18年) |
西前頭18枚目 4–11 |
東十両6枚目 4–3–8 |
x | |||
1944年 (昭和19年) |
東十両6枚目 7–8 |
西十両7枚目 5–5 |
東十両6枚目 4–6 |
|||
1945年 (昭和20年) |
x | 西十両8枚目 – 応召 |
十両 5–5 |
|||
1946年 (昭和21年) |
x | x | 東十両7枚目 6–7 |
|||
1947年 (昭和22年) |
x | 西十両9枚目 4–6 |
西十両10枚目 3–8 |
|||
1948年 (昭和23年) |
x | 東幕下筆頭 1–5 |
西幕下16枚目 0–6 |
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1949年 (昭和24年) |
西三段目14枚目 休場 0–0–12 |
東三段目18枚目 引退 0–0–15 |
x | |||
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
幕内対戦成績
[編集]力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | |||
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綾昇 | 0 | 1 | 一渡 | 1 | 0 | 神東山 | 0 | 1 | 駿河海 | 0 | 1 | |||
武ノ里 | 0 | 1 | 肥州山 | 0 | 1 | 松ノ里 | 0 | 1 | 陸奥ノ里 | 0 | 1 |