戒覚
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かいかく 戒覚 | |
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11世紀後半 | |
生地 |
日本 平安京 現: 日本 京都府京都市 |
没地 |
宋 河東路代州五台県 五台山 現: 中華人民共和国 山西省忻州市五台県 |
宗派 | 天台宗 |
寺院 | 延暦寺、実報寺、引摂寺、五台山真容院 |
弟子 | 仙勢、隆尊 |
著作 | 『渡宋記』 |
戒覚(かいかく)は平安時代後期の入宋僧。俗姓は中原氏[1]。
経歴
[編集]比叡山に入り、40年修行。伝灯大法師となる。その後、播磨国実報寺、同国引摂寺へ移る[1]。
永保2年・元豊5年(1082年)9月5日、三年待った末に、勅許を得ず、弟子と共に博多にて宋の商人・劉琨の船に乗り込み宋へ向かった。彼らは、船底に隠れて、用便せぬように飲食を我慢していたという。船は13日まで北崎浦で風待ちし、21日に明州へたどり着いた[2]。
12月11日、明州を出発し、船で開封に向かう。70日かけて翌元豊6年(1083年)2月20日、開封に着いた[3]。途中、宋州で象を見たことを『渡宋記』に書いている[4]。開封では戒壇院へ寄留し[5]、3月5日には神宗に朝見し、紫衣を賜った[3]。
5月8日、五台山に向け出発。6月8日、五台山真容院に到着[3]。11日、戒覚と弟子の仙勢の真容院への永住が認められた[6]。15日、五色の光を放つ「菩薩石」、五台山の土と茸、『渡宋記』を引摂寺へ託すと書いて、『渡宋記』を擱筆した。おそらく、帰国する弟子の隆尊が持ち帰ったと思われる[7]。
『万代和歌集』に1首[8]、また『渡宋記』にも2首の和歌がある[9]。
『渡宋記』
[編集]戒覚の日記で、永保2年(1082年)9月5日から始まり、元豊6年(1083年)6月15日で終わる[8]。現存するのは、寛喜元年(1229年)に実報寺の実尊が筆写した抄本が宮内庁にある[1][8]。1960年に再発見され、従来南宋(1127-1279)期に渡宋したと思われていたことが、覆された[10]。
参考文献
[編集]- 『渡宋記』, 国書データベース
- 宮内庁書陵部「"古代中世の対外関係資料" 展示目録」, 1989, p.9
- 福岡市「市史だより」18号, 2014, p.2
- 水口幹記『成尋』吉川弘文館人物叢書, 2023
- 森公章「遣外使節と求法・巡礼僧の日記」, 『日本研究』, 2011, p.347
- 『渡宋記』 - コトバンク
脚注
[編集]- ^ a b c 宮内庁(1989)
- ^ 『渡宋記』、福岡市(2014)、宮内庁(1989)
- ^ a b c 『渡宋記』
- ^ 『渡宋記』元豊6年2月16日、水口(2023):p.152
- ^ 『渡宋記』元豊6年2月21日
- ^ 『渡宋記』、宮内庁(1989)、水口(2023):p.178
- ^ 『渡宋記』、宮内庁(1989)、森(2011)
- ^ a b c 平林盛得「改訂新版 世界大百科事典」平凡社
- ^ 元豊6年2月20日、3月7日
- ^ 榎本渉「ある一人の入宋僧」,『明日の東洋学』, 2003