張湛
張 湛(ちょう たん、生没年不詳)は、中国の前漢時代末期から後漢時代初期にかけての政治家。字は子孝。司隷扶風平陵県(現在の陝西省咸陽市秦都区)の人。
事跡
[編集]姓名 | 張湛 |
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時代 | 前漢時代 - 後漢時代 |
生没年 | 〔不詳〕 |
字・別号 | 子孝(字) |
本貫・出身地等 | 司隷扶風平陵県 |
職官 | 左馮翊〔後漢〕→光禄勲〔後漢〕 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 成帝→哀帝→平帝→孺子嬰→王莽→光武帝 |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
矜厳にして礼節に優れ、挙動は規則正しく、家中に在っても佇まいは整っており、妻子に対しては厳格な君主のようであった。郷里の親しい人に会っても、言動は審らかで、厳粛な顔つきであった。このため、三輔の人からは、手本(「儀表」)とされた。あるとき、張湛の所作は偽りであると言う人がいたが、張湛はこれを聞くと、「たしかに私は偽りを行っている。しかし、他の者は悪さを為すために偽りをなすのに、私は善を為すために偽りをなしている。それだけのことではないかね」と笑って答えた。
成帝・哀帝の代に、二千石の官僚となった。新の王莽のときには、太守や都尉を歴任した。
光武帝(劉秀)が即位すると、左馮翊に任命された。郡において儀式作法(「典礼」)を整備し、教育の規則(「條教」)を設け、政治による教化(「政化」)を大いに広めた。建武5年(29年)、光禄勲に任命され、光武帝が朝廷で、だらけた顔を見せたときには、張湛はそれを指弾した。張湛はいつも白馬に乗っていたため、光武帝は張湛に会うたびに「白馬先生(「白馬生」)が、また諌めにやってきたか」と言った。
建武7年(31年)、病により辞職を求め、光禄大夫に任命され、王丹の後任として太子太傅となった。建武17年(41年)、郭皇后(郭聖通)が廃されると、張湛は病により朝廷に現れなくなり、太中大夫に任命され、中東門の館(「候舎」)に滞在し、「中東門君」と呼ばれた。建武20年(44年)4月、大司徒戴渉が罪により獄死すると、光武帝は張湛に強いて代理を務めさせた。ところが、張湛は朝堂で失禁してしまい、もはや政務に関われないとして、自ら辞任を申し出、そのまま罷免された[1]。その数年後に、張湛は死去した。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『後漢書』列伝17張湛伝