庄司儀右衛門
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庄司 儀右衛門(しょうじ ぎえもん、生没年不明)は日本の江戸時代の豪農・商人。
経歴
[編集]会見郡渡村(現在の鳥取県境港市渡町)出身。庄司姓については、渡村集落の中心部に「庄司名」の地字も残り、中世荘園 (日本)との関連が推定されるが、現段階ではその起源を立証するものは見当たらない[1]。もとは出雲の安来出身とする説もある[2]
天保15年(1844年)、御城普請費に1000両を献金、一代限「苗字御免・五人扶持」を許され、安政3年(1856年)には籾蔵建造費1000両を献金して永代「苗字御免・五人扶持」を許された。その直後に鉄山融通会所出銀座を命ぜられ、勤中「帯刀御免・宗旨庄屋次席扱い」となった。
さらに文久2年(1862年)には、新田開発費として2300両を献上する。また鉄山融通会所出銀座役は同家の建三郎に受け継がれている。
木綿融通会所
[編集]安政5年(1858年)藩政改革にさきがけ国産方が設けられ移出木綿の統制が行われた。鳥取町方の太吉郎・嘉助、河村郡橋津村灰吹屋次郎兵衛、汗入郡御来屋村船田藤右衛門、会見郡渡村庄司儀右衛門らが関与して、木綿融通所が設けられ、荷主、仲買人が木綿を移出する場合は、融通所で改め、国産役所から「送り手形を受け取って、番所を通るべし」と改められた。
渡村庄司家に保存されている「御国産御役所手形出入覚」を見ると嘉永6年(1853年)8月から安政2年(1855年)2月まで庄司家を通じて13000反が出荷されており、いかに木綿生産が盛んであったかがわかる。庄司儀右衛門は弟と目される安来屋幸助とともに木綿問屋を兼ね、2人で8600反、全体の63パーセントを出荷、浜の目で見ると84パーセントとなり、庄司家は浜の目を代表する木綿問屋だった。
家系
[編集]- 庄司家(【市】1.庄司家母屋・茶座敷及び庭園)
→詳細は「庄司廉」を参照
参考文献
[編集]- 『境港市史 上巻』昭和61年、405頁
- 『境港市史 下巻』昭和61年、8頁