コンテンツにスキップ

広沢安任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
広沢富次郎から転送)
廣澤 安任
生誕 1830年2月24日
陸奥国若松
死没 (1891-02-05) 1891年2月5日(60歳没)
出身校 藩校日新館
昌平黌
職業 会津藩公用方
斗南藩大属
牧場主
子供 廣澤辨二
テンプレートを表示

広沢 安任(ひろさわ やすとう、文政13年2月2日1830年2月24日) - 明治24年(1891年2月5日)は、江戸時代後期(幕末)から明治期の武士会津藩藩士)、牧場主である。通称富次郎(とみじろう)。

生涯

[編集]

広沢庄助の次男。文久2年(1862年)、会津藩主・松平容保京都守護職に任ぜられ、安任は先んじて上京し京都の情勢を探った。容保上京後は公用方に任ぜられ、公卿、諸藩士、新選組などと交流を持った。鳥羽・伏見の戦いの後、江戸そして会津に戻った容保らの立場を新政府に嘆願するため、江戸に残ったが新政府軍に投獄された。明治2年(1869年)に釈放されているが、これは親交のあった英国外交官アーネスト・サトウの進言があったと言われている。[要出典]

その後、会津藩は戊辰戦争に破れ斗南(現在の青森県の一部)に減封移封された後、廃藩置県により斗南県となっていた[1]。斗南県小参事となった安任は、困窮にあえぐ自県の救済策として弘前県への吸収合併を画策し、八戸県大参事・太田広城と両名で、弘前・黒石・斗南・七戸・八戸の5県合併を政府に建言した結果、合併による新たな弘前県(後の青森県)を成立させた[1][2]

また貧困に苦しんでいた旧会津藩士のため、1872年(明治5年)に谷地頭(やちがしら、現在の三沢市)に洋式牧場「開牧社」を開設し地域の発展に尽くした[3]。開牧社は日本初の洋式牧場である[2]。当初は地元の反対や資金難に苦しんだが、内国勧業博覧会で馬、牛が龍紋賞を受賞している[4]。なお、1876年(明治9年)の明治天皇青森行幸の折には、随行していた内務卿・大久保利通が牧場を訪れ、中央政府の要職を準備して仕官を薦めたが、安任は「野にあって国家に尽くす」として固辞した[2][3]。養嗣子に甥の辨二を迎えた[3]。辨二は駒場農学校を卒業後、衆議院議員となった[3][5]。1891年(明治24年)インフルエンザで死去した[3]

1915年(大正4年)、従五位を追贈された[6]

その他

[編集]
  • 1878年(明治11年)に安任が記した『開牧五年紀事』には、福澤諭吉が「思うことは話すことよりたやすく、話すことは書くよりもたやすい。最も難しいのはそれを行うことである」と序文を寄せた[2]
  • 「開牧社」は「広沢牧場」と名を替えて子孫により経営が続けられてきたが、1985年(昭和60年)暮れに閉鎖されている。その後、土地の一部や史料・建築物が地元三沢市に寄付され、市により公園整備されて、1995年(平成7年)より斗南藩記念観光村として一般開放されている(2000年(平成12年)には道の駅に登録された)。
  • 広沢は会津藩嘆願書を勝海舟を通じて新政府に提出しようとした。勝海舟の補佐役林三郎(元会津藩士)、薩摩藩士益満久之助と品川沖の西郷隆盛に届ける日時を決めたが、益満が彰義隊の流れ弾で負傷したため中止になった。広沢は獄中から林三郎に手紙を書いた。

関連作品

[編集]
テレビドラマ

出典

[編集]
  1. ^ a b 放牧事業に大農法を導入/広沢 安任(ひろさわ やすとう) – 青森県農業協同組合中央会”. www.ja-aomori.or.jp. 2022年1月13日閲覧。
  2. ^ a b c d 日本の牧畜、酪農業の嚆矢(こうし)(2019年4月15日 第1356号)”. www.nouminren.ne.jp. 農民運動全国連合会. 2022年1月13日閲覧。
  3. ^ a b c d e 斗南藩と廣澤安任について|斗南藩記念観光村”. www.city.misawa.lg.jp. 三沢市. 2022年1月13日閲覧。
  4. ^ 『近代日本の先駆者』「広沢安任」
  5. ^ 相田泰三『斗南藩こぼれ草』84頁
  6. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.32

参考文献

[編集]
  • 富田仁編『近代日本の先駆者』日外アソシエーツ、1995年
  • 松野良寅『会津の英学』歴史春秋、1991年
  • 池月映『会津人群像№43』「勝海舟の補佐役 会津藩士林三郎」歴史春秋社 2022年