平則道
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時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 寛弘5年(1008年)8月11日?[1] |
死没 | 不明 |
別名 | 岩城則道、岩城治部大輔、岩城次郎大夫[2] |
氏族 | 桓武平氏高望王流、岩城氏 |
父母 | 父:平安忠? |
兄弟 | 平泰貞?[2]、平貞衡?[2] |
妻 | 徳姫?[3] |
子 | 平泰貞?、平貞衡?[2]、平忠清?、平忠隆?、平直基?、平直忠?、平清衡?、平忠衡?、平繁衡?、平成衡?、平直衡?[2] |
平 則道(たいら の のりみち)は、平安時代中期の武将。岩城則道とも呼ばれた。ただし、一次史料は存在しないため、実在性が疑問視されることもある[1]。
経歴
[編集]則道は、寛弘5年(1008年)8月11日に生まれ、常陸国の府中に住んだという[1]。前九年の役の際に、則道やその子・忠清、三舘権太郎清衡に軍功があったため、天皇より岩城18万石を賜ったという[1]。
妻は徳姫であり(岩城成衡の妻とする説もある)、則道の死後、徳姫は剃髪して尼となり、白水阿弥陀堂を建立したと伝えられている[3]。