コンテンツにスキップ

川島清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
かわしま きよし
川島 淸
本名 河島 淸三郎 (かわしま せいざぶろう)
別名義 鵜沼 三四郎 (うぬま さんしろう)
生年月日 (1905-11-14) 1905年11月14日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 岡山県苫田郡奥津村(現在の同県同郡鏡野町
身長 163.9cm
職業 俳優殺陣師
ジャンル 演劇劇映画時代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1923年 - 1937年
主な作品
銀蛇
隼六剣士
テンプレートを表示

川島 清(かわしま きよし、1905年11月14日 - 没年不詳)は、日本の俳優殺陣師である[1][2][3][4][5][6]川島 淸と表記されることもある。本名は河島 淸三郎(かわしま せいざぶろう)[1][2][3][6]。旧芸名は鵜沼 三四郎(うぬま さんしろう)[6]マキノ・プロダクションの主要人物の一人である[2][3]

来歴・人物

[編集]

1905年(明治38年)11月14日岡山県苫田郡奥津村(現在の同郡鏡野町)に生まれる[1][2][3][4][5][6]

旧制大阪府立高津中学校(現在の大阪府立高津高等学校)を卒業後、現在の大阪府富田林市にあった天地キネマに入社[1][2][3]。ただし、同社での出演作品は不明である[1]。2004年(平成16年)10月15日に発行された『日本映画人改名・改称事典』(国書刊行会)によれば、同社在籍当時は「鵜沼 三四郎」という芸名で活動していたという[6]。その後、舞台を経てマキノ・プロダクションに入社し、同時に芸名を「川島 清」と改名[1][2][3][6]。1927年(昭和2年)4月22日に公開された賀古残夢監督映画『銀蛇』などに出演、以後マキノの中堅悪役俳優として売り出す[1][2][3][5]。また、殺陣師としても活動していた時期もある[5]。翌々1929年(昭和4年)に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』によれば、京都府葛野郡花園村斎宮町(現在の同府京都市右京区龍安寺斎宮町)、奈良県生駒郡生駒町(現在の同県生駒市)と転々と住み、身長は5尺4寸1分(約163.9センチメートル)、趣味は散歩読書で、甘味の物とバナナが嗜好であり、好きな俳優はロン・チェイニー(1883年 - 1930年)と大河内傳次郎(1898年 - 1962年)であるという[2][3]

1931年(昭和6年)5月、マキノ・プロダクション解散後、東活映画を経て、1933年(昭和8年)1月15日に市川右太衛門プロダクションへ移籍し、同年11月16日に公開された志波西果監督映画『疾風正雪』などに助演[3][5][6]。また、1936年(昭和12年)の一時期、芸名を「鵜沼 三四郎」に戻していたが、同年に松竹下加茂撮影所に移籍して間も無く「川島 清」に戻し、出演を続けた[5][6]。ところが、翌1937年(昭和12年)8月14日に公開された犬塚稔監督映画『元禄快挙余譚 土屋主税 雪解篇』以降の出演作品が見当たらず、以後の消息は不明である[1][4][5][6]没年不詳

出演作品

[編集]

マキノ・プロダクション御室撮影所

[編集]

特筆以外、全て製作は「マキノ・プロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、全てサイレント映画である。

東活映画社

[編集]

全て製作・配給は「東活映画社」、全てサイレント映画である。

市川右太衛門プロダクション

[編集]

全て製作は「市川右太衛門プロダクション」、配給は「松竹」、特筆以外は全てサイレント映画である。

松竹下加茂撮影所

[編集]

特筆以外、全て製作は「松竹下加茂撮影所」、配給は「松竹」、全てトーキーである。

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h 『日本映画俳優全集 男優篇』キネマ旬報社、1979年、172頁。 
  2. ^ a b c d e f g h 『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』映画世界社、1929年、54-55頁。 
  3. ^ a b c d e f g h i 『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』映画世界社、1933年、64頁。 
  4. ^ a b c 『日本人物レファレンス事典 芸能篇1 (映画・演劇・タレント)』日外アソシエーツ、2014年。 
  5. ^ a b c d e f g 『日本映画興亡史 マキノ一家』ワイズ出版、2000年、24頁。 
  6. ^ a b c d e f g h i 『日本映画人改名・改称事典』国書刊行会、2004年。

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]