岩屋後古墳
岩屋後古墳 | |
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![]() 石室開口部 | |
所在地 | 島根県松江市大草町(字岩屋後) |
位置 | 北緯35度25分35.93秒 東経133度5分35.15秒 / 北緯35.4266472度 東経133.0930972度座標: 北緯35度25分35.93秒 東経133度5分35.15秒 / 北緯35.4266472度 東経133.0930972度 |
形状 | 不明 |
規模 | 20m |
埋葬施設 | 石棺式石室 |
出土品 | 須恵器・埴輪 |
築造時期 | 6世紀後半 |
史跡 | 島根県指定史跡「岩屋後古墳」 |
地図 |
岩屋後古墳(いわやあとこふん)は、島根県松江市大草町にある古墳。島根県指定史跡に指定されている。
概要
[編集]島根県東部、意宇平野南西隅の平野部に築造された古墳である。現在では周囲は水田化し、墳丘の大半は失われ、石室も半壊している。1977年度(昭和52年度)に発掘調査が実施されている。
墳形は明らかでなく、20メートル程度の墳丘の円墳または方墳と推定される[1]。墳丘周辺では円筒埴輪・形象埴輪(人物埴輪)・須恵器が検出されている。埋葬施設は石棺式石室で、南西方向に開口する。玄室・羨道・前庭部から構成されたが、現在は玄室のみが遺存する。玄室が一枚石の組み合わせで家形石棺状に構築された石室である。出雲地方東部に分布する石棺式石室としては、家形屋根が明確な典型例であり最大規模のものとして注目される。石室内は盗掘に遭っており、副葬品は詳らかでない。
築造時期は、古墳時代後期の6世紀後半頃と推定される[2]。付近では岡田山1号墳や御崎山古墳と同時期に位置づけられる[2]。出雲地方東部では、山代・大庭古墳群(山代二子塚古墳・山代方墳など)の規模が突出しており、大草町周辺の岩屋後古墳・岡田山1号墳の被葬者はその大首長を補佐する立場にあったと想定される[3]。
古墳域は1970年(昭和45年)に島根県指定史跡に指定されている。
遺跡歴
[編集]- 明治期、開墾時に人物埴輪5体以上の出土(現在は東京国立博物館保管)[2]。
- 1970年(昭和45年)10月27日、島根県指定史跡に指定。
- 1972年(昭和47年)、八雲立つ風土記の丘の開所。
- 1977年度(昭和52年度)、発掘調査。須恵器・埴輪の出土(島根県教育委員会、1978年に概要報告)[4]。
埋葬施設
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埋葬施設としては石棺式石室が構築されており、南西方向に開口する。玄室・羨道・前庭部から構成されたが、現在では羨道・前庭部は破壊されており、玄室のみが遺存する[2]。
玄室の規模は、長さ2メートル・幅3.3メートル・高さ2.3メートルを測る[5]。玄室の奥壁・側壁はいずれも一枚石による。天井石も一石で、内外面とも平入り四注式の家形に加工されている[2]。羨道も一枚石によって構築されるが、前庭部は割石積みによる[2]。
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玄室右側壁(北西壁)
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玄室奥壁
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玄室左側壁(南東壁)
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墳丘・石室開口部
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石室展開図
出土品
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埴輪 首飾り・耳飾りを付けた女性、襷掛けの人物(複製)
島根県立八雲立つ風土記の丘展示。 -
埴輪 帽子をかぶる男性、襷掛けの人物(複製)
島根県立八雲立つ風土記の丘展示。 -
円筒埴輪
島根県立八雲立つ風土記の丘展示。
文化財
[編集]島根県指定文化財
[編集]- 史跡
- 岩屋後古墳 - 1970年(昭和45年)10月27日指定。
関連施設
[編集]- 島根県立八雲立つ風土記の丘(松江市大庭町) - 岩屋後古墳の出土品・出土人物埴輪複製品を保管・展示。
- 東京国立博物館(東京都台東区) - 岩屋後古墳の出土人物埴輪を保管。
脚注
[編集]参考文献
[編集](記事執筆に使用した文献)
- 史跡説明板(島根県教育委員会、2024年設置)
- 岩屋後古墳パンフレット(シリーズ八雲立つ風土記の丘No.1)島根県教育委員会、2014年。
- 『岩屋後古墳発掘調査概報』島根県教育委員会、1978年。 - リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」。
- 「岩屋後古墳」『島根県の地名』平凡社〈日本歴史地名大系33〉、1995年。ISBN 4582490336。
関連文献
[編集](記事執筆に使用していない関連文献)
- 『石棺式石室の研究 -出雲地方を中心とする切石造り横穴式石室の検討-』出雲考古学研究会、1987年。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 岩屋後古墳 - 島根県「山陰史跡探訪」