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岩屋後古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
岩屋後古墳
石室開口部
所在地 島根県松江市大草町(字岩屋後)
位置 北緯35度25分35.93秒 東経133度5分35.15秒 / 北緯35.4266472度 東経133.0930972度 / 35.4266472; 133.0930972座標: 北緯35度25分35.93秒 東経133度5分35.15秒 / 北緯35.4266472度 東経133.0930972度 / 35.4266472; 133.0930972
形状 不明
規模 20m
埋葬施設 石棺式石室
出土品 須恵器埴輪
築造時期 6世紀後半
史跡 島根県指定史跡「岩屋後古墳」
地図
岩屋後古墳の位置(島根県内)
岩屋後古墳
岩屋後古墳
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岩屋後古墳(いわやあとこふん)は、島根県松江市大草町にある古墳。島根県指定史跡に指定されている。

概要

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島根県東部、意宇平野南西隅の平野部に築造された古墳である。現在では周囲は水田化し、墳丘の大半は失われ、石室も半壊している。1977年度(昭和52年度)に発掘調査が実施されている。

墳形は明らかでなく、20メートル程度の墳丘の円墳または方墳と推定される[1]。墳丘周辺では円筒埴輪形象埴輪(人物埴輪)・須恵器が検出されている。埋葬施設は石棺式石室で、南西方向に開口する。玄室・羨道・前庭部から構成されたが、現在は玄室のみが遺存する。玄室が一枚石の組み合わせで家形石棺状に構築された石室である。出雲地方東部に分布する石棺式石室としては、家形屋根が明確な典型例であり最大規模のものとして注目される。石室内は盗掘に遭っており、副葬品は詳らかでない。

築造時期は、古墳時代後期の6世紀後半頃と推定される[2]。付近では岡田山1号墳御崎山古墳と同時期に位置づけられる[2]。出雲地方東部では、山代・大庭古墳群(山代二子塚古墳山代方墳など)の規模が突出しており、大草町周辺の岩屋後古墳・岡田山1号墳の被葬者はその大首長を補佐する立場にあったと想定される[3]

古墳域は1970年(昭和45年)に島根県指定史跡に指定されている。

遺跡歴

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  • 明治期、開墾時に人物埴輪5体以上の出土(現在は東京国立博物館保管)[2]
  • 1970年昭和45年)10月27日、島根県指定史跡に指定。
  • 1972年(昭和47年)、八雲立つ風土記の丘の開所。
  • 1977年度(昭和52年度)、発掘調査。須恵器・埴輪の出土(島根県教育委員会、1978年に概要報告)[4]

埋葬施設

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石室俯瞰図
石室立断面図

埋葬施設としては石棺式石室が構築されており、南西方向に開口する。玄室・羨道・前庭部から構成されたが、現在では羨道・前庭部は破壊されており、玄室のみが遺存する[2]

玄室の規模は、長さ2メートル・幅3.3メートル・高さ2.3メートルを測る[5]。玄室の奥壁・側壁はいずれも一枚石による。天井石も一石で、内外面とも平入り四注式の家形に加工されている[2]。羨道も一枚石によって構築されるが、前庭部は割石積みによる[2]

出土品

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  • 埴輪 - 上半身に襷を表現した女性埴輪2、鍔付帽子の男性埴輪1、首飾りと耳飾りの女性埴輪1[3]
  • 須恵器 - 革袋形土器・子持壺[3][1]

文化財

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島根県指定文化財

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  • 史跡
    • 岩屋後古墳 - 1970年(昭和45年)10月27日指定。

関連施設

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脚注

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  1. ^ a b 岩屋後古墳(島根県「山陰史跡探訪」)。
  2. ^ a b c d e f 史跡説明板。
  3. ^ a b c 岩屋後古墳パンフレット。
  4. ^ 岩屋後古墳発掘調査概報 1978.
  5. ^ 島根県の地名 1995.

参考文献

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(記事執筆に使用した文献)

  • 史跡説明板(島根県教育委員会、2024年設置)
  • 岩屋後古墳パンフレット(シリーズ八雲立つ風土記の丘No.1)島根県教育委員会、2014年。
  • 岩屋後古墳発掘調査概報』島根県教育委員会、1978年。  - リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」。
  • 「岩屋後古墳」『島根県の地名』平凡社日本歴史地名大系33〉、1995年。ISBN 4582490336 

関連文献

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(記事執筆に使用していない関連文献)

  • 『石棺式石室の研究 -出雲地方を中心とする切石造り横穴式石室の検討-』出雲考古学研究会、1987年。 

関連項目

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外部リンク

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