岡本監輔
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岡本 監輔(おかもと かんすけ、1839年11月22日(天保10年10月17日)[1] - 1904年(明治37年)11月9日)は、日本の北海道開拓者。阿波国(現在の徳島県美馬市)出身。
生涯
[編集]阿波国(現在の徳島県美馬市穴吹町三島三谷)の医薬家に生まれる[2]。通称は文平、号は韋庵。
1863年(文久3年)から1865年(慶応1年)に樺太と蝦夷地を踏査し樺太北部の状況をはじめて明らかにした。1868年(明治元年)に箱館裁判所の内国事務局権判事となり箱館に在勤、その後、箱館府権判事となり樺太全島の事務を委任される。1869年(明治2年)には開拓判官となるが、政府の樺太政策に不満を持ち辞任。その後、東大予備門御用掛・一高講師・台湾総督府国語学校教授などを歴任[3]。
1904年(明治37年)11月9日、東京で没する。享年66歳[2]。墓所は港区西麻布の長谷寺。
著書
[編集]- 「岡本氏自伝」
脚注
[編集]参考文献
[編集]著書
・有馬卓也『岡本韋庵の北方構想』中国書店、2024年。ISBN 978-4-903316-76-5 。
公職 | ||
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先代 伊達行平 |
徳島県尋常中学校長 1894年 - 1897年 |
次代 岸本依信 |