山本信次郎
生誕 |
1877年12月22日 日本・神奈川県藤沢市 |
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死没 |
1942年2月28日(64歳没) 大日本帝国・東京市市ヶ谷田町 (現・東京都新宿区市谷田町) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1900年 - 1924年 |
最終階級 | 海軍少将 |
墓所 | 青山霊園4-1イ-1,2-2 |
山本 信次郎(やまもと しんじろう、1877年(明治10年)12月22日 - 1942年(昭和17年)2月28日[1])は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将[2][3]、カトリック教会信者。正三位勲二等功五級[1]。族籍は神奈川県平民[4]。
生涯
[編集]相模国鎌倉郡川口村(現・片瀬)の旧家の山本庄太郎・ミツ夫婦の次男として生まれ[5]、父親が持ち家をマリア会の別荘として貸していた関係から、小学校卒業後、マリア会の暁星中学校に入学した[6][7]。暁星中学校は禁教令廃止後に開設されたカトリック教会系の学校であるが、当時はキリスト教に対する敵視が根強く、彼も当初は侮蔑を抱いていた。だが学校を運営しているマリア会の修道士と過ごしているうちにキリスト教を次第に理解するようになる[8]。
信次郎は父にカトリックを学ぶ許可を得ようとしたが大反対を受けた。父は寺の檀家総代を務めていた[9]。彼は諦めず父を説得し、三度目でようやく許可を得て校長であるアルフォンス・ヘンリック神父のもとで要理を学び、1893年(明治26年)12月24日、クリスマス前夜に洗礼を受けた[10]。洗礼名は「ステファノ」[11]。卒業目前、彼は進路に悩み、その相談をヘンリック神父に持ちかけ、神父から軍人を志すように薦められた[12]。
1898年(明治31年)、海軍兵学校を卒業[4](26期、席次は59名中17番[13])。1900年(明治33年)、海軍少尉に任じ、累進して海軍少将となる[3]。1903年(明治36年)、兄・百太郎方より分かれて一家を創立した[2]。海軍士官として日露戦争に参戦し、日本海海戦には旗艦「三笠」分隊長として参戦。秋山真之とニコライ・ネボガトフ少将の降伏交渉ではフランス語で通訳した[14]。
1909年(明治42年)、海軍大学校を卒業し、東郷平八郎附属副官、イタリア大使館付武官などを歴任し、1919年(大正8年)から1937年(昭和12年)まで東宮御学問所御用掛として当時、皇太子であった昭和天皇に仕え、1921年(大正10年)、ヨーロッパ5カ国訪問に付き添い、ローマ教皇ベネディクトゥス15世との会見実現に尽力した[15]。また、政府との仲介を務め、神社参拝問題の解決に努め、教皇庁特派使節としてピウス11世に謁見し、南洋諸島の宣教者問題の解決に尽くした[16]。
父親没後の1923年ころ、宣教活動費捻出のため、父親が遺した片瀬の造成地を分譲することに決め、1925年に妻とともに東京から片瀬に転居した[7]。洋風建築の新居では、10年間、マリア会やイエズス会の司祭が不定期にミサを行なった[7]。分譲地開発にあたっては、欧州で体験したキリスト教に基く町づくりを理想とし、駅前の商店、学校、教会を中心としたコミュニティ形成を計画した[7]。1929年に妻が没したのを機に東京に戻り、片瀬の山本家の土地は1937年にシャルトル聖パウロ修道会に寄付した[7]。
1938年7月、教皇ピウス11世の代理としてブラジルに派遣され[17]、 サンパウロ市にて、初海外派遣の日本人宣教師中村長八神父に「大聖グレゴリオ勲章」を授与した[18]。
カトリック信者として信仰生活を送り、教会の諸行事に参加し、各教会、各修道会に土地を寄進。牛込田町の自宅を開放し、青少年を育成する公教会青年会を設立、のちに全国的組織へと発展させ、「カトリック新聞」の前身である「カトリック・タイムズ」を創刊した[19]。1942年(昭和17年)死去。
- 外国勲章佩用允許
人物
[編集]趣味は読書[3]。宗教はカトリック教[3]。1906年(明治39年)、吉原重俊の次女、千代子(後にカトリック教会の洗礼を受ける)と結婚し、三男二女を儲ける[21]。
住所は東京市麹町区下六番町[2]、牛込区市谷田町[4]。神奈川県在籍[3]。
栄典
[編集]- 1900年(明治33年)2月20日 - 正八位[22]
- 1901年(明治34年)12月17日 - 従七位[23]
- 1903年(明治36年)12月19日 - 正七位[24]
- 1908年(明治41年)12月11日 - 従六位[25]
- 1914年(大正3年)1月30日 - 正六位[26]
- 1918年(大正7年)1月30日 - 従五位[27]
- 1922年(大正11年)12月28日 - 正五位[28]
- 1924年(大正13年)3月24日 - 従四位[29]
家族・親族
[編集]- 山本家
- 父・庄太郎[2](1919年没) - 山本家は江戸時代から川口村の名主を務める旧家で、庄太郎は鎌倉郡長、県会議員なども務めた。
- 母・ミツ(1948年没)
- 兄・百太郎[2] - 片瀬村の収入役、郵便局長などを務め、江ノ島電鉄の大株主でもあった。
- 弟・三郎 - 桂太郎首相秘書官。妻は岩下壮一の妹。
- 妻・千代(1884年生[2]、1929年没) - 吉原重俊の二女。45歳で没。
- 男・一(1909年生)[2]
- 男・正(1910年生)[2]
- 男・玄(1911年生)[2]
- 女・武子(1907年生)[2]
- 女・貞子(1914年生)[2]
- 養子・ムメ(1891年生、兄・百太郎の長女)[2]
- 親戚
出典
[編集]- ^ a b 『日本海軍史』(第10巻)「山本信次郎」
- ^ a b c d e f g h i j k l 『人事興信録 第9版』ヤ168頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年4月27日閲覧。
- ^ a b c d e 『人事興信録 第12版 下』ヤ172頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年4月28日閲覧。
- ^ a b c 『人事興信録 第6版』や102頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年4月27日閲覧。
- ^ 『父・山本伝次郎伝』 19頁
- ^ 『人物中心のカトリック教会史』 359頁
- ^ a b c d e 宗教遺産の近代的営繕と動態保全の仕組みに関する研究 福島綾子、平成24年度国土政策関係研究支援事業 研究成果報告書
- ^ 『人物中心のカトリック教会史』 360 - 361頁
- ^ 『人物中心のカトリック教会史』361頁
- ^ 『人物中心のカトリック教会史』 362頁、『父・山本信次郎伝』 9頁、30頁
- ^ 『父・山本信次郎伝』 5頁
- ^ 『父・山本信次郎伝』30-31頁
- ^ 『海軍兵学校沿革』(原書房)「明治31年12月13日」
- ^ 児島襄『日露戦争 7』(文春文庫)、116頁
- ^ 『父・山本信次郎伝』81-82頁
- ^ 『人物中心のカトリック教会史』 367頁
- ^ 新谷光アルベルト著 (2015年3月). “「ブラジルの日本移民とカトリック教会の社会的役割」”. 『移民研究年報』 21号: p.119-137.
- ^ Domingosu nakamura chōhachi shinpu : Burajiru nihon imin no shito. Ōnishi, Pedoro., Mizuno, Hajime, 1930-, 大西, ペドロ, 水野, 一, 1930-, Nichihaku Shiboku Kyōkai., 日伯司牧協会. S.l.: Mizūra Masao. (2007). ISBN 9784882162865. OCLC 675073080
- ^ 『父・山本信次郎伝』150-156頁
- ^ 『官報』第5718号「叙任及辞令」1902年7月26日。
- ^ 『父・山本伝次郎伝』225頁
- ^ 『官報』第4989号「叙任及辞令」1900年2月21日。
- ^ 『官報』第5539号「叙任及辞令」1901年12月18日。
- ^ 『官報』第6142号「叙任及辞令」1903年12月21日。
- ^ 『官報』第7640号「叙任及辞令」1908年12月12日。
- ^ 『官報』第451号「叙任及辞令」1914年1月31日。
- ^ 『官報』第1647号「叙任及辞令」1918年1月31日。
- ^ 『官報』第3126号「叙任及辞令」1923年1月4日。
- ^ 『官報』第3483号「叙任及辞令」1924年4月7日。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
- 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
- 人事興信所編『人事興信録 第12版 下』人事興信所、1940年。
- 山本正『父・山本信次郎伝』中央出版社(サンパウロ)、1993年。
- 池田敏雄『人物中心のカトリック教会史』サンパウロ、1998年。
- 大西ペドロ『ドミンゴス中村長八神父:ブラジル日本移民の使徒』聖母の騎士社、2007年。
- 海軍歴史保存会編『日本海軍史』(第10巻)、第一法規出版。
評伝
[編集]- 皿木喜久 『軍服の修道士山本信次郎 天皇と法王の架け橋』 産経新聞出版、2019年