コンテンツにスキップ

小野田嘉幹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小野田正彦から転送)
おのだ よしき
小野田 嘉幹
小野田 嘉幹
1958年
本名 小野田 正彦 おのだ まさひこ
生年月日 (1925-07-12) 1925年7月12日(99歳)
出生地 日本の旗 日本東京府東京市(現在の東京都
職業 映画監督脚本家
ジャンル 映画テレビ映画
活動期間 1947年 -
活動内容 1947年 新東宝助監督部入社
1958年 監督昇進
1961年 新東宝倒産でフリーランスに
配偶者 三ツ矢歌子
(1960年−2004年死別)
著名な家族 平田昭彦(弟)
音羽美子(妹)
主な作品
鬼平犯科帳
伊能忠敬 子午線の夢
テンプレートを表示

小野田 嘉幹(おのだ よしき、1925年7月12日 - )は、日本映画監督脚本家。弟は平田昭彦、妹は音羽美子。妻は三ツ矢歌子(2004年死別)。

人物・来歴

[編集]

1925年(大正14年)7月12日東京府東京市(現在の東京都)に「小野田正彦」として生まれる[1]。誕生後に朝鮮(現在の大韓民国)に渡り、2年後の1927年(昭和2年)12月16日には京城府(現在のソウル特別市)で弟の昭彦が生まれている。さらに5年後の1932年(昭和7年)7月6日には妹の和子(のちの音羽美子)が生まれている。

東海科学専門学校(現東海大学)卒業後、1947年昭和22年)に新東宝助監督部に入社した[1]。本名の「小野田正彦」で、黒澤明稲垣浩並木鏡太郎冬島泰三らの作品で助監督を務め[1]、1958年(昭和33年)、富士映画製作、若山富三郎主演の中篇映画『楠公二代誠忠録』で監督としてデビュー、同年、現在の「小野田嘉幹」に改名し、『人喰海女』を監督した[1]。翌年5作、さらに翌々年の1960年(昭和35年)には4作を監督し、同年12月8日、『人喰海女』や『女奴隷船』にも出演した同社の女優・三ツ矢歌子と結婚した[1]

1961年昭和36年)8月31日に会社が解散、翌日同社を分社化した配給会社・大宝が設立されると、新東宝のプロデューサーだった佐川滉の佐川プロダクションで『黒い傷あとのブルース』を撮ったが、翌年には大宝が業務停止に陥り、小野田は以降、フリーランス・ディレクターとなり[1]、同年からテレビ映画の監督に専念した。

2004年平成16年)3月24日、11歳年下の妻・三ツ矢歌子と死別、三回忌を迎えた2006年(平成18年)4月に妻の回想録『桜は二度咲いた』を上梓した[2]

100作を超えるテレビ映画を手がけ[3]、2008年(平成20年)4月11日放映の『剣客商売 - 春の嵐』が2009年10月現在の最新作である。

フィルモグラフィ

[編集]

新東宝

[編集]
助監督
監督

テレビ映画

[編集]
松本白鸚から中村吉右衛門まで、監督を担当。末期は監修。
加藤剛山形勲から藤田まこと山口馬木也(スペシャル版を含む)まで、監督を担当。

映画

[編集]

ビブリオグラフィ

[編集]

国立国会図書館蔵書[4]

[編集]
  1. ^ a b c d e f 『桜は二度咲いた 肺がんと闘い、逝った女優・三ツ矢歌子』、イースト・プレス、2006年4月、奥付の公式プロフィール。
  2. ^ #ビブリオグラフィ
  3. ^ テレビドラマデータベース、全文検索の結果、2009年10月21日閲覧。
  4. ^ NDL-OPAC検索結果、国立国会図書館、2009年10月21日閲覧。

外部リンク

[編集]