コンテンツにスキップ

小早川盛景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
小早川盛景
時代 室町時代
生誕 未詳
死没 未詳
別名 安芸太郎四郎[1]、入道陽元(法名)[1]
戒名 心宗元公(法号)[1]
官位 中務少輔[1]、安芸守[1]
幕府 室町幕府
主君 足利将軍家
氏族 小早川氏
父母 父:小早川弘景 (初代)[1]
兄弟 小早川盛景小早川長菊丸
小早川弘景 (二代)[1]小早川又十郎
テンプレートを表示

小早川 盛景(こばやかわ もりかげ)は、室町時代武将竹原小早川氏の第10代当主。小早川弘景(初代)の嫡男。

生涯

[編集]

竹原小早川氏は、父・弘景の代から大内氏と関係を深めるようになり、その当主・大内盛見より偏諱を受けて盛景と名乗る。

応永34年 (1427年)、弘景より安芸国都宇・竹原荘・梨子羽郷南方、備前国裳懸荘、美作国打穴荘などの所領を譲り受け、竹原小早川氏の家督を相続した。宝徳2年 (1450年)、室町幕府に命じられ、伊予国守護河野教通の、河野通春討伐に加勢する。

この頃、本家・沼田小早川家では家督抗争が起こっていたが室町幕府第6代将軍・足利義教は調停に乗り出し、嘉吉元年(1441年)、盛景が沼田小早川家の家督も相続するようにとの決定を下した。

しかし、この決定を沼田小早川家が承服するわけもなく、これが一因となり、両小早川氏は反目し合い、抗争を繰り返すようになり、応仁元年(1467年)からの応仁の乱でも激しく敵対した。両家の融和がはかられるのは盛景の孫・弘平の代になってからのことである。

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g 今井尭ほか編 1984, p. 341.

参考文献

[編集]
  • 今井尭ほか編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多小西四郎竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQISBN 4404012403NCID BN00172373OCLC 11260668全国書誌番号:84023599 

関連史料

[編集]

関連項目

[編集]