宮崎八郎
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宮崎八郎 | |
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宮崎八郎 | |
生年 | 1851年 |
生地 | 日本・肥後国玉名郡荒尾村(現・熊本県荒尾市) |
没年 | 1877年4月6日(26歳没) |
没地 | 日本・熊本県八代郡八代萩原堤(現・八代市) |
思想 | 自由民権運動 |
影響を受けたもの | 中江兆民 |
宮崎 八郎(みやざき はちろう、1851年(嘉永4年)- 1877年(明治10年)4月6日)は、肥後国出身の自由民権運動家。中江兆民との親交を重ね[1]、「九州のルソー」と呼ばれた[2]。西南戦争で西郷隆盛を支援し、26歳にして志半ばで戦死した。
生涯
[編集]肥後国玉名郡荒尾村(現・熊本県荒尾市)の郷士・宮崎政賢(宮崎長兵衛/長蔵)・佐喜夫妻の次男として生まれる。弟に宮崎民蔵、宮崎彌蔵、宮崎滔天がいた。父には山東家伝二天一流を弟たちとともに習っている。1864年(元治元年)元服し長州征伐に父とともに従軍する。時習館に通う。1870年(明治3年)上京。1874年(明治7年)『征韓之議』を提出する。
ルソーの『社会契約論』の部分訳である中江兆民の『民約論』に影響を受ける。1875年(明治8年)4月26日、熊本県植木町に植木学校(校長は平川惟一、八郎は学務委員)を設立したが10月末で閉校する[1]。東京の評論新聞社に入社。1877年(明治10年)、鹿児島県で西郷隆盛の私学校が西南戦争をおこすと、民権家同士と熊本協同隊を結成し2月21日に川尻で薩摩軍に合流、桐野利秋のもとで共に政府軍を相手に戦う。4月6日、熊本県八代郡八代萩原堤(現・八代市)で戦死。
伝記
[編集]関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ a b 上村希美雄『夢翔ける』荒尾市宮崎兄弟資料館、1995年、13頁。
- ^ 宮崎滔天 三十三年の夢松岡正剛の千夜千冊、1168夜、2006年12月30日