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宮原義汨

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宮原 義汨(みやはら よしいづ[1]宝永5年(1708年) - 明和6年4月4日1769年5月9日))は、江戸時代中期の高家旗本宮原氏義の長男。母は水谷勝阜の娘[1]通称は勘五郎、市正[1]

正徳5年(1715年)12月26日、父氏義の死去により8歳で家督を相続する[1]享保8年(1723年)1月28日、将軍徳川吉宗御目見する[1]明和元年(1764年)8月13日、隠居し[1]、長男義潔に家督を譲る。隠居後は南楼と称した[1]。明和6年(1769年)4月4日死去、享年62[1]

正妻は杉浦正奉の娘[1]。子女に長男義潔、三男義利(宮原義潔養子)ら3男4女あり。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i 寛政譜 1922, p. 435.

参考文献

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  • 寛政重脩諸家譜』 第1輯、國民圖書、1922年。doi:10.11501/1082717全国書誌番号:21329090 オープンアクセス