宍戸広周
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宍戸 広周(ししど ひろちか、享保5年(1720年) - 明和9年9月2日(1772年9月28日))は、長州藩毛利家家臣。宍戸家第20代当主。
父は熊谷元貞。母は志道就保(椙杜就保とも、志道元保の曾孫)の娘。養父は伯父(父・元貞の実兄)である宍戸広隆。正室は毛利元連の娘。子は宍戸就年。
通称は初次郎、志摩、出雲。藩主毛利宗広より偏諱を受けて、初め広満(ひろみつ)、のち広周と名乗る。
生涯
[編集]享保5年(1720年)、長州藩士熊谷元貞の次男として生まれる。元文元年(1736年)、伯父宍戸広隆の死去によりその家督を相続し、三丘領主、長州藩一門家老となり、藩主毛利宗広、重就に仕えた。宝暦元年(1751年)、藩主宗広が没し、支藩清末藩より重就が藩主として迎えられる。実子を世子としたい重就と対立して、宗広の遺言として縁戚の有馬家より一準の子・純峯(毛利重広)を養子に迎えることを主張して実現する。宝暦2年(1752年)7月に重就に加判役(家老)を罷免される。宝暦10年(1760年)、世子重広が没し、重就の四男岩之允(毛利治親)が世子と定められると、反対派として処分される。
宝暦11年(1761年)、家督を嫡男就年に譲り隠居する。明和9年(1772年)9月2日死去。享年53。
参考文献
[編集]- 石川卓美著「防長歴史用語辞典」