安達頼景
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時代 | 鎌倉時代中期 |
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生誕 | 寛喜元年(1229年) |
死没 | 正応5年(1292年) |
別名 | 城次郎、関戸次郎 |
官位 | 丹後守 |
幕府 | 鎌倉幕府引付衆、評定衆 |
主君 | 宗尊親王 |
氏族 | 安達氏 |
父母 | 父:安達義景 |
兄弟 | 頼景、大室三郎、泰盛、時盛、重景、顕盛、長景、時景、公義、覚山尼、長井宗秀妻、宇都宮景綱妻、北条朝直妻 |
安達 頼景(あだち よりかげ)は、鎌倉時代中期の鎌倉幕府の御家人。安達氏の一族で、安達義景の次男。安達泰盛の兄。
経歴
[編集]頼景の2歳年下の弟泰盛が、当初から安達氏の嫡男が継承する「九郎」を名乗っている事から、頼景は庶兄であったと思われる。
建長4年(1252年)、宗尊親王の鎌倉入りを朝廷に伝える使者を務め、翌建長5年(1253年)に25歳で泰盛と共に幕府の引付衆となる。この年の6月に父義景が死去している。正嘉(1257年)には丹後守となり、安達氏の家督である秋田城介の継承候補からは外されている。
弘長3年(1263年)、宗尊親王と深い繋がりがあり、後藤基政と共に六波羅探題評定衆に転出。同年11月の北条時頼の死去に伴い出家。文永9年(1272年)の二月騒動に連座して関東に召し出され、所領二ヵ所を没収された。
弘安8年(1285年)の霜月騒動で安達一族が滅ぼされたが、頼景は泰盛に属さなかったのか難を逃れている。正応5年(1292年)、64歳で死去。