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安宅清康

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 
安宅清康
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正9年(1581年
別名 貴康[1]
官位 河内守
氏族 安宅氏
父母 父:安宅冬康
兄弟 信康清康
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安宅 清康(あたぎ きよやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将淡路国洲本城由良城の城主[1][2]。官途名は河内守[1][2][3]。初め甚五郎冬宗と名乗ったという[4][注釈 1]

清康の名は一次史料で見られず、同時期の安宅氏当主として安宅 神五郎(あたぎ じんごろう)の名が確認できる。神五郎についても本項で述べる。

略歴

清康は安宅冬康の二男とされ[1][2]、実子でなく養子であるともいわれる[3]

天正6年(1578年)、兄・安宅信康が死去したために家督を継ぐ[2]。天正9年(1581年)11月、織田信長の命を受けた羽柴秀吉池田元助の軍に攻められ降伏した[1][3]。『太閤記』によると、この時降伏した「安宅河内守」は元助ともに安土へと赴き、信長から所領を安堵されたという[1][6]。しかし清康はこの年のうちに洲本城で病死したとされる[7]。この他、秀吉に降伏した後、切腹したとの話も伝わる[5]

福岡藩黒田家には安宅切(あたきぎり、重要文化財)という刀が伝来するが、この名は天正9年(1581年)の淡路由良城攻めの際、黒田孝高がこの刀で安宅河内守を討ち取ったことに由来するとされる[8][9]

なお、近年の研究によれば、「清康」や兄「信康」の名は一次史料で確認できず[10]、また羽柴秀吉・池田元助から「安宅河内守」に宛てられた書状の写が存在するものの、その内容から偽文書とみられ、安宅河内守が実在したかどうかも不明となる[11]。安宅冬康の死後、安宅氏の家督は冬康の嫡男・神太郎が継ぎ、その後、冬康の兄である三好実休の子の神五郎が継承したとされている[10]

安宅神五郎

 
安宅 神五郎
時代 戦国時代 - 安土桃山時代?
生誕 不明
死没 不明
別名 甚五郎、三好神五郎[12]
主君 織田信長羽柴秀吉
氏族 三好氏安宅氏
父母 父:三好実休、養父:安宅冬康
兄弟 三好長治十河存保神五郎、女子[13]
義兄:安宅神太郎
三好甚九郎
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天正期の安宅氏当主・安宅神五郎は、三好実休の子(『三好別記』では三男)として生まれた[14]元亀3年(1572年)4月には安宅氏の養子になっており、「安宅神五郎」と呼ばれている[15][12]。同年11月時点で安宅冬康の嫡子・神太郎が健在だったが[16]、神太郎は間もなく死去したためか、これ以後、神五郎が安宅氏の当主として活動している[12][注釈 2]。神五郎の養子入りについては、織田信長と対立する三好氏が信長方に付く神太郎に対抗すべく送り込んだものと考えられる[18]

天正3年(1575年)10月、神五郎は信長と和睦し、阿波三好氏から離反した[19]。天正4年(1576年)5月、大坂本願寺に兵糧を運び入れようとする毛利方の警固衆を迎撃するよう、信長から求められている[19]。同年7月、摂津木津浦での戦いで織田方警固は毛利方に敗れ壊滅した(第一次木津川口の戦い[20]。その後の10月時点で毛利方は大坂への兵糧搬入を容易と見ており(「小笠原文書」)、織田方の海上戦力が失われたこともあって、神五郎は毛利方に対し表立って敵対することはなかったものとみられる[21]

天正4年(1576年)12月に神五郎の実兄で阿波三好氏当主の三好長治が滅亡すると、神五郎はそれを本願寺に伝達し[22]、天正5年(1577年)1月には毛利輝元の叔父・小早川隆景の誘いに応じて、毛利・本願寺方へと転じていた[23]

天正6年(1578年)12月、神五郎は対立していたとみられる志知野口長宗を排除し、淡路全体が毛利方となった[24]。野口長宗はこの後羽柴秀吉を頼り、阿波の反三好勢力に対する取次を務めることとなる[25]

天正9年(1581年)11月、羽柴秀吉と池田元助が淡路に出陣し、毛利方の守る岩屋城を落城させ、織田勢による淡路制圧が完了した[26][注釈 3]

天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変が起きると、淡路水軍の菅達長が洲本城を占拠した[29]。同月9日、備中から播磨へと戻ってきた秀吉が神五郎にその奪還を命じている[29]。この際、神五郎は「三好神五郎」と呼ばれており、三好一族として遇されていた[30][31]

天正10年(1582年)9月、神五郎は阿波出陣に加わって[32]秀吉から本知を安堵されたが[33]、天正12年(1584年)、内陸部の播磨国明石郡押部谷へ2,500石で転封された[34]。この後、淡路全島は秀吉の直臣である仙石秀久へと与えられ、秀久の讃岐転封後は同じく秀吉直臣の脇坂安治加藤嘉明に与えられた[35]

神五郎はこの後慶長4年(1599年)に、子とみられる三好甚九郎や片桐且元らとともに相国寺警固を行っていることが確認できる(「鹿苑日録」)[36]

脚注

注釈

  1. ^ 大永8年(1528年)に炬口城主の安宅次郎三郎秀益が三好元長に背いて攻められたといい、その秀益を匿った由良城主の名も安宅甚五郎冬宗とされる[5]
  2. ^ 神太郎については、後に石田三成に仕え、九州島津氏相良氏との交渉に携わった安宅秀安と同一人物の可能性が指摘される[17]
  3. ^ 秀吉らは天正9年(1581年)11月17日に岩屋城に向け出陣し、講和により岩屋城が開城した後、11月20日に帰陣している[27]。岩屋城落城後、秀吉らは安宅氏の守る洲本城を攻めて落城させたという説があるが、藤田達生はそれには日程的に無理があり、またその根拠となる史料の信憑性にも疑いがあるとし、秀吉らの出陣以前に淡路は岩屋城を除いてほぼ制圧されていたものとしている[28]

出典

  1. ^ a b c d e f 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年、28頁。ISBN 978-4-642-01457-1 
  2. ^ a b c d 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、46頁。ISBN 4-404-01752-9 
  3. ^ a b c 洲本市史編さん委員会 1974, p. 81.
  4. ^ 洲本市史編さん委員会 1974, p. 95.
  5. ^ a b 洲本市史編さん委員会 1974, p. 96.
  6. ^ 佐藤, 八木 & 藤田 2020, pp. 183–184; 藤田 2021, p. 287.
  7. ^ 安宅清康」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E5%AE%89%E5%AE%85%E6%B8%85%E5%BA%B7コトバンクより2022年11月24日閲覧 
  8. ^ 田鍋隆男. “No.165 刀と能面 -黒田家伝来品を中心に-”. 福岡市博物館ホームページ. 福岡市博物館. 2022年12月3日閲覧。
  9. ^ 【ふくおかの名宝】観賞ガイド⑬ 拵が重要文化財! 重要文化財・金霰鮫青漆打刀拵”. 福岡市博物館ブログ. 福岡市博物館 (2020年11月16日). 2022年12月3日閲覧。
  10. ^ a b 天野 2015, p. 211.
  11. ^ 佐藤, 八木 & 藤田 2020, pp. 182–185; 藤田 2021, pp. 285–289.
  12. ^ a b c 天野 2012, p. 17; 天野 2015, pp. 211–212.
  13. ^ 天野 2021, 三好氏略系図.
  14. ^ 天野 2012, p. 17; 天野 2015, p. 211.
  15. ^ (元亀3年)4月27日付三好義継書状写(『土佐国蠧簡集竹頭』)。
  16. ^ 元亀3年11月13日付織田信長朱印状写(『古簡雑纂』)。
  17. ^ 天野 2021, p. 182.
  18. ^ 天野 2016, pp. 116–117; 中平 2020, p. 86.
  19. ^ a b 中平 2020, p. 86.
  20. ^ 中平 2020, pp. 86–87.
  21. ^ 中平 2020, p. 87.
  22. ^ 天野 2016, pp. 145–147; 中平 2020, p. 87; 天野 2021, pp. 162–163.
  23. ^ 天野 2016, p. 147; 天野 2021, p. 163.
  24. ^ 中平 2020, p. 90.
  25. ^ 中平 2020, pp. 90, 93.
  26. ^ 佐藤, 八木 & 藤田 2020, pp. 170–173; 中平 2020, pp. 96–97; 藤田 2021, pp. 271–275.
  27. ^ 佐藤, 八木 & 藤田 2020, pp. 170–173; 藤田 2021, pp. 271–275.
  28. ^ 佐藤, 八木 & 藤田 2020, pp. 169–174, 182–185; 藤田 2021, pp. 270–275, 285–289.
  29. ^ a b 天野 2016, p. 174; 天野 2021, p. 174.
  30. ^ (天正10年)6月9日付羽柴秀吉書状(「萩原員崇氏所蔵文書」)。
  31. ^ 天野 2012, pp. 17, 265.
  32. ^ 藤田 2021, p. 295.
  33. ^ 天野 2016, p. 175.
  34. ^ 天野 2016, p. 185; 天野 2021, p. 181.
  35. ^ 天野 2016, p. 185.
  36. ^ 天野 2021, pp. 181–182.

参考文献