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孟恩遠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
孟 恩遠
Who's Who in China 3rd ed. (1925)
プロフィール
出生: 1859年咸豊8年)[1]
死去: 1933年民国22年)
中華民国の旗 中華民国天津市
出身地: 清の旗 直隷省天津府
職業: 軍人
各種表記
繁体字 孟恩遠
簡体字 孟恩远
拼音 Mèng Ēnyuǎn
ラテン字 Meng En-yüan
和名表記: もう おんえん
発音転記: モン オンユエン
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孟 恩遠(もう おんえん)は清末民初の軍人。北京政府安徽派に属した。曙村

事績

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1895年光緒21年)、袁世凱が創設した新建陸軍に加入する。その後、北洋第4鎮馬標標統、直隷巡防営統領、南陽鎮総兵などを歴任した。徐世昌東三省総督になると、孟恩遠は吉林巡防営督弁(吉軍翼長)、北洋第23鎮統制を歴任した。

1912年民国元年)、鎮が師に改組され、孟はそのまま第23師師長をつとめた。その後、吉林護軍使に昇進する。1914年(民国3年)、鎮安左将軍督理吉林軍務(いわゆる吉林将軍。後に吉林督軍)に昇進した。1915年(民国4年)12月、袁世凱が皇帝に即位すると、一等伯爵に封じられた。

1916年(民国5年)6月の袁世凱死後は、安徽派に属した。1917年(民国6年)7月の張勲復辟に加担したため、いったん督軍を辞職する。それでも、後任督軍の田中玉奉天派張作霖の圧力を受けて辞職したため、孟は督軍に返り咲いた。しかし1919年(民国8年)、張の圧力で今度は孟が吉林督軍から罷免されそうになる。孟は武力で抵抗しようとしたが、奉軍には敵し得ず、ついに辞任した。以後、天津の租界に逃げ込んで、政界・軍界から引退した。

1933年(民国22年)、病没。享年75。

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  1. ^ 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』957頁による。Who's Who in China 3rd ed.,p.604は1855年とする。

参考文献

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  • 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2001年。ISBN 7-310-01517-7 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
張錫鑾(吉林都督)
吉林将軍
1914年6月 - 1916年7月
次代
(督軍に改称)
先代
(将軍から改称)
吉林督軍
1916年7月 - 1917年10月
次代
田中玉
先代
田中玉
吉林督軍
1918年3月 - 1919年7月
次代
鮑貴卿