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大菅中養父

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大菅 中養父(おおすが なかやぶ、宝永7年(1710年) - 安永7年1月4日1778年1月31日))は江戸時代中期の国学者彦根藩陪臣。名は圭、公圭、白圭。通称は権兵衛。字は瓚美。別号に芥(芹?)水。号は居住地近江国犬上郡中薮村(滋賀県彦根市中藪)に因む。

賀茂真淵に師事して日本の古典を研究し、彦根の地に国学の種を巻いた。田中道麿の師としても知られる。

生涯

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宝永7年(1710年)、彦根藩印具氏家老の家に生まれる。契沖の歌論を好み、賀茂真淵に師事して古典を学んだ[1]。中年の頃、時流に従い荻生徂徠古文辞学も学びながらも、日本の古典の研究を続けた[1]

晩年研究成果を著書に纏めることを志したが、安永5年(1776年)春病に罹り、「もう終わりだ。我が著作の志は遂げられない。造物者が自分を休息させようとしているのか。かの皐如たる者が欲しい。」と子や弟子に告げて[2]、城南安楽寺山に寿蔵を作らせ、中養父自ら詩を刻んだ[1]辞世は「三栗の中養父大人が奥都城はいづらと問はゞこゝと答へよ」[3]。1月4日死去。墓所は青波村江東庵[3](彦根市芹川町江東寺か)。跡は婿養子大菅南坡が継いだ。

主な著作

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  • 『国歌八論斥非』 - 宝暦11年(1761年)3月成立。荷田在満国歌八論』を批評する。本居宣長『国歌八論斥非評』、藤原維斎『国歌八論斥非再評』、宣長『国歌八論斥非再評ノ評』などが続き、論争が巻き起こった。
  • 『百人一首批釈』 - 『小倉百人一首』批評注釈。
  • 『雅筵随筆』

門下

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脚注

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  1. ^ a b c 「学士小伝 旧彦根藩」『日本教育史資料』5・巻12、1891年 p.14
  2. ^ 「皐」は「高」に通し、高い様。ウィキソース出典 大略篇” (中国語), 荀子, ウィキソースより閲覧, "其の壙を望めば、皋如たり、顛如たり、鬲如たり、此れ則ち息ふ所と知る。" 
  3. ^ a b 依田学海『話園』博文館、1893年 p.53-54