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大沢基重

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大沢基重
時代 江戸時代前期
生誕 慶長7年(1602年
死没 慶安3年5月26日1650年6月24日
別名 通称:虎松
戒名 康庵寺殿押山勝英大居士
墓所 吉祥寺
官位 従四位下侍従右京亮
幕府 江戸幕府 高家旗本
主君 徳川秀忠家光
氏族 大沢氏持明院家庶流
父母 父:大沢基宿、母:一条信龍
兄弟 基重持明院基定基成基近
山名豊政正室ら4男2女
養兄弟:基賀
正室:近藤季用
基将尚親基哲土方勝次室、
中野弘吉室、松平乗延[1]
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大沢 基重(おおさわ もとしげ)は、江戸時代前期の高家旗本通称は虎松。官位従四位下侍従右京亮

生涯

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大沢基宿の長男として誕生した。

慶長15年(1610年)、従五位下・侍従・右京亮に叙任する[注釈 1]。同年、部屋住ながら、2代将軍・徳川秀忠に召し出されて、「近侍」することになる。また、遠江国敷知郡内で1000石を賜る。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に際し、水野忠清の部隊に所属し参加する。元和元年(1615年)、大坂夏の陣に参加し、首一級を得る戦功を挙げる。

寛永9年(1632年)9月12日、父・基宿の隠居により家督を相続する。寛永17年(1640年)、基宿の死去により、その遺領と合わせて2550石余を領有する。寛永18年(1641年)3月、同年7月、正保2年(1645年)5月と3度にわたって朝廷に対する幕府の使者として上洛する。実質的な高家職の役割を果たす。正保2年(1645年)6月10日、従四位下に昇進する。慶安2年(1649年)7月、朝廷に対する幕府の使者として上洛する。慶安3年(1650年)5月26日、死去。享年49。

系譜

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子女は3男3女。3女とも尚親の妹。

脚注

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注釈

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  1. ^ 『寛政重修諸家譜』では慶長15年になっているが、『光豊公記』では慶長16年になっている[2]

出典

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  1. ^ 大給松平家
  2. ^ 村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」『駒沢史学』80号、P117
先代
大沢基宿
高家大沢家2代当主
1632年 - 1650年
次代
大沢基将