堀内次雄
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人物情報 | |
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生誕 |
1873年5月25日 日本兵庫県丹波篠山市 |
死没 | 1955年5月12日 (81歳没) |
出身校 | 東北大学 |
学問 | |
研究分野 | 医学 |
研究機関 | 台湾総督府医学校 |
堀内 次雄(ほりうち つぎお/つぐお、1873年〈明治6年〉5月25日[1] - 1955年〈昭和30年〉5月12日[2])は、明治から昭和時代の医学者、大日本帝国陸軍軍医。
経歴
[編集]堀内直学の長男として丹波国多紀郡篠山北新町(現・兵庫県丹波篠山市北新町)に生まれ、1888年(明治21年)7月、家督を相続する[1][3][4]。
1894年(明治27年)第二高等学校医学部(現・東北大学医学部)を卒業し、陸軍に入り、三等軍医となる[3]。1896年(明治29年)台北病院医務嘱託、台北県医院医員、台湾総督府医院医員、台湾総督府医学校助教授、同校舍監、同校教授、同医院医長を歴任する[1][3]。1912年(大正元年)多紀郡出身者として初めて医学博士の学位を授かる[3][5]。1915年(大正4年)台湾総督府医学校長に任ぜられ、同府中央研究所技師を兼職した[3]。
ほか、台湾中央研究所長、赤十字病院台湾支部医長、台湾在郷軍人会会長[4]、台湾総督府評議会員[6]などを務めた。
1955年(昭和30年)5月、脳軟化症により死去した[2]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[8]
脚注
[編集]- ^ a b c 人事興信所 1915, ほ12頁.
- ^ a b 『南溟会報 昭和30年6月』11頁。
- ^ a b c d e 人事興信所 1928, ホ31頁.
- ^ a b 篠山新聞社 1933, 55頁.
- ^ 篠山新聞社 1933, 56頁.
- ^ 興南新聞社 1943, 360頁.
- ^ 『官報』第2789号「叙任及辞令」1936年4月22日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
参考文献
[編集]- 人事興信所『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年 。
- 人事興信所『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年 。
- 篠山新聞社『多紀、氷上人名鑑』篠山新聞社、1933年 。
- 興南新聞社 編『台湾人士鑑』呂霊石、1943年 。
- 『南溟会報 昭和30年6月』南溟会本部、1955年。
外部リンク
[編集]- ウィキメディア・コモンズには、堀内次雄に関するカテゴリがあります。