城官寺
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城官寺 | |
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所在地 |
東京都北区上中里1-42-8 35°44'41.7"N 139°44'48.1"E |
位置 | 北緯35度44分41.7秒 東経139度44分48.1秒 / 北緯35.744917度 東経139.746694度座標: 北緯35度44分41.7秒 東経139度44分48.1秒 / 北緯35.744917度 東経139.746694度 |
山号 | 平塚山[1](ひらつかさん) |
院号 | 安楽院[1] |
宗旨 | 真言宗 |
宗派 | 豊山派 |
本尊 | 阿弥陀如来[2] |
中興年 | 寛永11年(1634年) |
中興 | 山川貞久 |
正式名 | 平塚山安楽院城官寺 |
札所等 | 豊島八十八ヶ所霊場47番札所、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場6番札所 |
文化財 | 多紀桂山一族の墓(東京都指定文化財) |
公式サイト | 城官寺公式ホームページ |
法人番号 | 6011505000180 |
城官寺(じょうかんじ)は、東京都北区上中里1丁目にある真言宗豊山派の寺院。
歴史
[編集]当寺院は昔筑紫(現在の福岡県)の安楽寺の僧侶が諸国巡礼の折、当寺に宿泊したことに始まる。その際に阿弥陀如来像を置き安楽院と称した寺院を創建した。当初はその関係から浄土宗の寺であった。[3]
その後、江戸時代になり、山川貞久(城官)という江戸幕府に仕えていた鍼灸師がいた。[3]ある時、三代将軍徳川家光が病で倒れた時、山川貞久は、豊島郡の平塚明神(現在城官寺に隣接してある平塚神社)に治癒を日夜祈っていた。家光の病気は治癒し、山川貞久は私財を投じて平塚明神を再建、さらに寛永11年(1634年)には平塚神社の別当して、当寺院を再興し真言宗の寺院とした。[3]
寛永17年(1640年)徳川家光が鷹狩りの際、当地を訪問。その際に平塚神社を見て、その豪華さに当神社は誰が造営したのかと村長に尋ねたところ、家光が病床の際に山川貞久が平塚神社に日々祈願し、治癒した事に感謝してここまでにしたと言ったと言われている。[2]
それを聞いた家光は感激し山川貞久を呼び出して、平塚神社と当寺院の社領として50石、さらに山川貞久に知行地として200石を与え、寺号を平塚山城官寺安楽院とするように命じたとされている。[2]
それ以来、格式ある寺院として知られるようになった。明治時代になり、神仏分離令により平塚神社と切り離され、現在に至っている。
当寺院には、江戸幕府に奥医師として仕えていた多紀桂山一族の墓(東京都指定文化財(史跡)、1936年指定[4])及び山川貞久一族の墓がある。(北区有形文化財[3])
主な施設
[編集]アクセス
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 北区教育委員会編『北区文化財案内 』1988年
- 「上中里村 平塚明神社別當城官寺」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ17豊島郡ノ9、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763977/102。
- “多紀桂山一族墓”. 北区飛鳥山博物館 (2015年4月23日). 2020年11月12日閲覧。