コンテンツにスキップ

喜連川昭氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
喜連川 昭氏
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛永19年10月24日1642年12月15日
死没 正徳3年11月12日1713年12月29日
改名 梅千代(幼名)、昭氏
戒名 令徳院殿孝山恭公大居士
墓所 龍光寺栃木県さくら市
官位 左馬頭左兵衛督
幕府 江戸幕府
主君 徳川家光家綱綱吉家宣家継
下野国喜連川藩
氏族 清和源氏義家流足利流[1]喜連川氏
父母 父:喜連川尊信、母:欣浄院(側室。一色氏久の曾孫。家老一色崇貞の養女)
兄弟 女子(福原資敏妻)、女子(永山榮和尚)、女子(天野雄重妻)、昭氏氏信(生母は正室)
正室:桜井松平忠倶の養女(織田信勝の娘)※忠倶の実の娘とも
菊千代、女子(喜連川氏春の正室)
養子:氏信氏春
テンプレートを表示

喜連川 昭氏(きつれがわ あきうじ、寛永19年(1642年)10月24日 - 正徳3年(1713年)11月12日)は、江戸時代前期〜中期の大名[2]下野国喜連川藩の第4代藩主[2][3]。梅千代、左馬頭左兵衛督[4]

生涯

[編集]

寛永19年(1642年)10月24日、第3代藩主・尊信の長男として生まれた[2][4]足利義昭で絶えた足利氏宗家(将軍家)を継承する者として、その1字をとって昭氏と名乗った[要出典]

正保4年(1647年)、藩の主導権をめぐって喜連川騒動が起こった。慶安元年(1648年)、父・尊信の隠居により7歳で跡を継ぐ[4]。慶安3年(1650年)、徳川家光の命により、榊原忠次[5]後見人となった[6]。正徳3年(1713年)11月12日に死去した[2][4]。享年72[2][4]。孝山恭公令徳院[4]

男児がいたが、早世し、養嗣子にした弟の氏信も早世したため、婿養子氏春が跡を継いだ[4]


系譜

[編集]

正室

養子

脚注

[編集]
  1. ^ 寛政譜 1922, p. 430.
  2. ^ a b c d e 喜連川昭氏https://kotobank.jp/word/%E5%96%9C%E9%80%A3%E5%B7%9D%E6%98%AD%E6%B0%8Fコトバンクより2022年12月13日閲覧 
  3. ^ 喜連川藩https://kotobank.jp/word/%E5%96%9C%E9%80%A3%E5%B7%9D%E8%97%A9コトバンクより2022年12月13日閲覧 
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m 寛政譜 1922, p. 433.
  5. ^ 尊信の母の松月院は榊原康政の養女であり、尊信と忠次は義理の従兄弟にあたる。
  6. ^ 喜連川判鑑 1893, p. 54.

参考文献

[編集]
  • 近藤瓶城 編『史籍集覧』 〔18〕 喜連川判鑑,みよしき、近藤活版所、1893年。doi:10.11501/769670全国書誌番号:40012260 オープンアクセス
  • 寛政重脩諸家譜』 第1輯、國民圖書、1922年。doi:10.11501/1082717全国書誌番号:21329090 オープンアクセス

外部リンク

[編集]