味鄒尼師今
味鄒尼師今 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 미추 이사금 |
漢字: | 味鄒尼師今 |
発音: | ミチュ・イサグム |
日本語読み: | みすう・にしきん |
ローマ字: | Michu Isageum |
味鄒尼師今(みすう にしきん、190年?- 284年)は、新羅の第13代の王(在位:262年 - 284年)であり、姓は金氏。金閼智の7世孫であり、父は金仇道葛文王[1]、母は第6代祇摩尼師今の子の伊柒葛文王の娘の述礼夫人。王妃は第11代助賁尼師今の娘の光明夫人。先代の沾解尼師今が子のないままに261年12月28日に死去したため、国人に推挙されて王となった。金氏王統の初代である。『三国史記』新羅本紀・味鄒尼師今紀には分注で味照(尼師今)、『三国遺事』王暦では味炤、未祖、未召、同書の紀異・未鄒王竹葉軍条では未鄒、未祖、未古とも記される。
治世
[編集]もっぱら百済との戦いが記録に残っているが、いずれも戦勝を収めている。266年8月に烽山城(慶尚北道栄州市)が攻められたが、城主の直宣がこれを敗走させた。この功績を称え、直宣を一吉飡(7等官)に引き立てるとともに、城の兵卒にも褒美を与えた。278年10月に、再び百済が侵入してきて槐谷城(忠清北道槐山郡)を包囲したが、波珍飡(4等官)の正源が撃退した。283年9月にも百済は新羅に攻め入り、10月には槐谷城を包囲したが、一吉飡の良質がよく防いだという。
在位23年にして284年10月に死去した。大陵(別名竹長陵)に埋葬された。『三国遺事』によれば、陵は興輪寺(慶州市)の東にあり[2]、竹葉軍の伝説にちなんで竹現陵ともいう。
竹葉軍の伝説
[編集]『三国史記』新羅本紀の儒礼尼師今紀や『三国遺事』紀異・未鄒王竹葉軍条には、次のような説話が伝わっている。
儒礼尼師今の14年(297年)、伊西国(慶尚北道清道郡)が攻めてきて首都金城を囲んだとき、新羅では大軍を率いて防戦に努めたが、なかなか退けることができなかった。不意に異形の兵が数え切れないほど現れ、新羅の兵と一緒になって伊西古国の軍を破ることができた。これらの異形の兵は竹の葉の耳飾をつけており、戦いが止むと何処ともなく消え失せてしまった。ある人が竹長陵(味鄒尼師今の陵墓)に竹の葉が数万枚も積み重なっているのを見て、これは味鄒尼師今が幻術による兵を用いて戦を援けてくれたのだ、と考えた。
金氏王統の始祖
[編集]『三国史記』巻32・祭祀志によれば、第36代の恵恭王の時代に五廟を定めたとあるが、そこには金氏の始祖として味鄒王(尼師今)を位置づけ、三国統一の偉業を為した太宗(武烈王)・文武王とをあわせて代々不変の宗とし、あわせて父景徳王・祖父聖徳王を加えて五廟としたという。王の名が幾通りにも記されそれぞれに音通することは、その伝承が古いことを表しており、また、味鄒の音(및)は「元・本」を意味し、味鄒王の表現は始祖王を表すものと考えられている。金氏の始祖については金閼智、勢漢、味鄒王の諸説(ほかに17代奈勿王とする伝承もある)が古くから平行して存在していたと見られている。(→井上訳注1980 pp.64-65.)
脚注
[編集]- ^ ただし、父の金仇道を葛文王に追封したのは、味鄒尼師今の即位2年(263年)2月であることが『三国史記』新羅本紀に記されている。なお、新羅王の即位については通常は立年改元の立場をとっているが、先王の死去が12月28日であったためか、味鄒尼師今については踰年改元で記されている。
- ^ 現在の慶州市の観光地(市内圏)に古墳公園として伝わっている。
参考文献
[編集]- 『三国史記』第1巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫372〉、1980 ISBN 4-582-80372-5
- 『三国史記』第3巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫454〉、1986 ISBN 4-582-80454-3
- 『三国遺事』坪井九馬三・日下寛校訂<文科大学史誌叢書>東京、1904(国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)