北条時定 (時氏流)
表示
北条時定像(満願寺蔵) | |
時代 | 鎌倉時代中期 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 正応3年10月15日[1](1290年11月18日) |
改名 | 時定→為時[1] |
別名 | 六郎[1]、阿蘇時定 |
墓所 | 熊本県阿蘇郡南小国町 満願寺 |
官位 | 従五位下、左衛門尉、遠江守 |
幕府 | 鎌倉幕府鎮西奉行、肥前守護 |
主君 | 藤原頼嗣→宗尊親王→惟康親王 |
氏族 | 北条氏(得宗家) |
父母 | 父:北条時氏、母:松下禅尼 |
兄弟 | 経時、時頼、時定(為時)、檜皮姫、女子(足利泰氏室)、女子(北条時定(時房流)室) |
子 | 時家、妙恵、養子:定宗、女子(斯波家氏室)、女子(渋川義顕室) |
北条 時定(ほうじょう ときさだ)は、鎌倉時代中期の北条氏の一門。北条時氏の三男。母は松下禅尼で、第4代執権・北条経時、第5代執権・北条時頼の同母弟にあたる[1]。得宗家から鎮西に下向した阿蘇家の祖。諱はのちに為時(ためとき)と改名している。
生涯
[編集]時定の正確な生年は不明であるが、安貞元年(1227年)から寛喜2年(1230年)の前と推定される[2]。
父・時氏は、時定の祖父で3代執権・北条泰時の後継者と目されていたが、早世したため時定の同母兄である経時、時頼が執権職を継承した。宝治元年(1247年)の宝治合戦では執権時頼の命で大将軍として三浦氏と戦った[1]。北条氏の祖である北条時政以来、代々継承された肥前阿蘇神社の所領を継ぎ、苗字を阿蘇と称する。弘長4年(1264年)、前年に死去した兄・時頼の百カ日仏事に際して満願寺を開創した。
将軍の側近として仕えたが、元寇にあたり、弘安4年(1281年)に肥前守護に任じられ、8月頃に現地に下向した。弘安8年(1285年)11月から弘安9年(1286年)閏12月の間に為時と改名する。弘安10年(1287年)1月29日には鎮西奉行に任じられて蒙古対策に従事した[1]。
正応2年(1289年)、養子の北条定宗に家督と肥前守護職を譲って隠居する。正応3年(1290年)10月15日に博多で死去[1](『尊卑分脈』では正応2年没)。
熊本県阿蘇郡南小国町に時定が建立した満願寺に、時定・定宗・随時のものと伝えられる五輪塔と、時定・定宗の肖像画がある。時定は弓の名人であったと伝わる[1]。
実子の随時は定宗の猶子となった。
画像集
[編集]-
満願寺(南小国町)山門(熊本県阿蘇郡南小国町満願寺2292)
-
満願寺石塔群付杉群(鎮西奉行北條時定、同弟定宗、同嫡子随時三氏の墓)
-
北條修理太夫時定五輪塔(中央)(正応三年(1290)12月15日入寂)
-
金比羅スギ(樹齢約1000年、鎮西奉行北条時定が満願寺開山の時、経杲和尚を招いた際に植えられた)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年。
- 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』吉川弘文館、2000年。
- 村井章介『北条時宗と蒙古襲来』NHK出版、2000年。
- 高橋慎一朗『北条時頼』吉川弘文館〈人物叢書〉、2013年。
外部リンク
[編集]
|
|
|