勧修寺経理
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時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 文政8年10月12日(1825年11月21日)[1] |
死没 | 明治4年6月19日(1871年8月5日) |
改名 | 稲丸(幼名)→経理 |
官位 | 従四位下、右中弁 |
主君 | 仁孝天皇→孝明天皇 |
氏族 | 勧修寺家 |
父母 | 父:勧修寺経則、養父:勧修寺顕彰 |
兄弟 | 穂波経治、経理 |
子 | 顕允 |
勧修寺 経理(かしゅうじ つねおさ)は、幕末の公家。勧修寺経則の三男。勧修寺顕彰の養子。官位は従四位下・右中弁。
経歴
[編集]実父・経則が従兄弟である顕彰に家督を譲った後に誕生する。そのため、顕彰の後継者を巡って経則と顕彰、勧修寺家の家臣の間に対立が生じた。その結果、兄・経治と経度(顕彰の子)はともに穂波家への養子として出された(経治が穂波家を継ぎ、経度を養子とする)事で経理が後継者となり、天保10年4月8日(1839年5月20日)に従五位下が授けられた。
廷臣八十八卿列参事件に養父・顕彰及び穂波経度と共に参加する。文久3年(1863年)に右少弁、元治元年(1864年)に蔵人に任じられるが、勧修寺家が毛利氏の執奏家であったために禁門の変に座して官職を奪われて蟄居を命じられる。
慶応4年1月(1868年)に赦免され、閏4月に従四位下・右中弁に任じられた。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ 公式の記録類では、生日を文政11年10月12日(1828年11月18日)とされているが、勧修寺家の雑掌などを務め、尚侍勧修寺徳子より経理の教育係に任じられた地下官人袖岡文景の日記『山城国京都袖岡玄蕃助家記』(国文学研究資料館所蔵)天保10年4月8日条に「……山科殿より御入輿 万千姫御腹文政八年十月十二日御出生、当年真実十五歳、(中略)漸至当春 稲丸殿御家督治定、御年齢真実十五歳候所、相省十二歳ヲ以今般初位従五位下御申上ニ相成候……」と記しており、年齢を3歳ずらして届け出たことを記している。なお、同日条には、経理の同母兄・穂波経治(阿古丸)の年齢(公式には文政7年7月13日生)も「穂波殿御相続之時御年齢一ヶ年相退」と記している。本項では、同記事の出生日を採用している。詳細は西村慎太郎「近世後期堂上公家勧修寺家の雑掌について―蔵人方地下官人袖岡文景『家記』を事例に」(初出:『史料館研究紀要』第34号(2003年3月)・所収:「堂上公家雑掌の地下官人」(加筆・改題)『近世朝廷社会と地下官人』(吉川弘文館、2008年) ISBN 978-4-642-02330-6 P274-275)を参照のこと。
参考文献
[編集]- 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。ISBN 978-4-642-03114-1
- 宮崎十三八他編『幕末維新人名辞典』新人物往来社、1994年。ISBN 978-4-404-02063-5
- 西村慎太郎『近世朝廷社会と地下官人』吉川弘文館、2008年。ISBN 978-4-642-03433-3