六条宮
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六条宮(ろくじょうのみや)は日本の皇室における御称号または宮号の一つ。宮家の初例とする説もあるが、現在の学界では否定する意見の方が強い。
概要
[編集]後鳥羽天皇皇子の雅成親王は正治2年(1200年)の誕生直後、宣陽門院覲子内親王の養子となり、5歳の時に親王宣下を受けた。この時、雅成親王は宣陽門院の御所である「六条殿」で成長していたため「六条宮」と呼称されていた。その後、雅成親王は承久の乱により兄・順徳天皇に連座して但馬国に流され、「但馬宮」と称するが、一説では後に帰京し、再び六条殿に住まいしていた(異説あり)。
雅成親王の子息である権僧正源空(法然とは別人)、澄覚法親王は「六条宮」を名乗っていない。すなわち、「六条宮」はあくまで、雅成親王個人の御称号にすぎず、鎌倉時代後期になって成立した、天皇から分与された所領とともに子孫に相続される、宮号ではないとする学説が多かった。
ところが、近年になって「六条宮」の称号は雅成親王だけではなく、順徳天皇第五皇子の忠成王(雅成親王には甥にあたる)も称していたとする史料(高野山文書『宝簡集』二十「金銅三鈷相伝事書案」)の存在が指摘されている[1]。これは、六条宮が世襲される、後の宮号の最古の例であった可能性を示すものといえる。
系図
[編集]脚注
[編集]- ^ 曽我部愛「〈宮家〉成立の諸前提」『中世王家の政治と構造』(同成社、2021年) ISBN 978-4-88621-879-7 P.221-228.
参考文献
[編集]- 「中世の親王家と宮家の創設」今谷明(『歴史読本』2006年11月号)
関連項目
[編集]- 宮騒動 - 「六条宮」を皇位に就けることを画策した陰謀。この「六条宮」は、従来は帰京した雅成親王のこととされ、このことから、親王は一時赦免されて京へ戻っていたのを、再び但馬へ配流された、とされていたが、現在は、この時の「六条宮」は忠成王のことであり、一貫して但馬に在住していた雅成親王は無関係だったのではないかとされる。