八木寅次郎
やぎ とらじろう 八木 寅次郎 | |
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生誕 |
1865年4月5日(元治2年3月10日) 武蔵国秩父郡寺尾村 |
死没 |
1946年(昭和21年)2月7日 柴原鉱泉 |
墓地 | 吉祥寺 (文京区) |
国籍 | 日本 |
職業 | 柔術家、接骨師、軍人、剣術家 |
流派 |
天神真楊流柔術、戸塚派楊心流 甲源一刀流 |
活動拠点 |
東京都本郷区駒込 天神真楊流柔術指南所 |
親 | 八木柳太郎 |
八木 寅次郎(やぎ とらじろう、1865年4月5日(元治2年3月10日) - 1946年(昭和21年)2月7日)は、日本の柔術家。
経歴
[編集]1865年4月5日(元治2年3月10日)に武蔵国秩父郡寺尾村(現・埼玉県秩父市)で八木柳太郎の三男として生まれる。
幼いころから体格が人より勝り武術を好んでいた。1877年(明治10年)に甲源一刀流の辺見多四郎、逸見愛作に就いて8年間剣道修業した。
17歳の春に東京へ修行に行くため正丸峠を越えた。途中、柔術の手合わせをしばしば行ったが「むこうに敵なし」と評判になったという。1885年(明治18年)、藍澤勝之と佐野周三郎から戸塚派楊心流、山口勝三郎から天神真楊流を学んだ。
その後、天神真楊流の三代目磯正智に弟子入りし、高弟の地位に上がり流派の重鎮となった。
陸軍教導団に入っており、同期には白川義則、林銑十郎がいた。日清戦争、日露戦争に従軍し金鵄勲章を受けている。
教導団時代は、四代目磯又右衛門正信の道場へ軍服姿で通っていた。柔術の稽古は荒く同門の人達は相手をすることを尻込んだという。稽古をしすぎて小便が真っ赤になったほどであった。
軍隊を退き、1892年(明治25年)3月に本郷東片町五二、旧中仙道の通りに面したところに三十畳の広さの「天神真楊流柔術指南所」を開設し柔術の指南と整骨業を始めた。
1894年7月4日に渡辺豊次郎の長女えいと結婚した。日清戦争に砲兵(野戦砲兵第一連隊)として従軍、満州各地を転戦した。
軍人勅諭を基礎に門弟を教育した。
また、柔道整復術の公認運動に参加した柔術家の一人でもあり、認可後に日本柔道整復師会の三代目会長に就任した。
講道館四天王の横山作次郎と親交があり、よく横山作次郎が道場に来て八木寅次郎と乱捕をしていたという。
参考文献
[編集]- 『尾田蒔村誌』尾田蒔村誌編纂委員会 編
- 『日整六十年史』日本柔道整復師会
- 『八木寅次郎伝 (天神真楊流柔道範士、柳心斎)』八木源三
- 醫師法違犯ノ件